私の認識が感じる本来のメタバースの厳密かつ簡潔な表現(恣意的)

※以下読む上での注意点

・真偽は不明

・数学的に間違っている(数学でさえない)

・中身が一切ない(それが正しいかも)

・循環論法に陥っている

・書き終えていない(真面目に書くつもりがない)

・記号の使い方が曖昧(やる気のせい)

以上のことを了承の上ご覧ください。

 

結論を先に述べる。

 

公理

素朴な認識以上の認識が存在する。

 

定義

 1_m:=メタバースの始まりと終わり(創造の本質)

C_p:=素朴な認識

I_p(x):=素朴な私を構成する要素の集合

U_p(x):=素朴な宇宙を構成する要素の集合

x:=素朴な認識の最小最大単位

a:=素朴な認識が認識できない認識を含んだ集合
b:=素朴な認識が認識できない対象を含んだ集合

(I_p, U_p, \infty\aleph_0とする。C_pのみ濃度不定)

 

定理

\lim_{I_p(x),U_p(x)\to 0,|\infty|}\frac{I_p(x)}{U_p(x)}=1_m  \{ x | a, b\to (0, |\infty|), \forall \varepsilon \gt 0, \exists \delta \gt 0 ~~ \mathrm{s.t.} \ \forall x \in C_p, 0 \lt |x-a| \lt \delta \Rightarrow ( |I_p(x)-b| \lt \varepsilon, |U_p(x)-b| \lt \varepsilon) \}

 

証明

???

感じてもらうしかない?

理性的じゃないなぁ……

 

解釈

1_mが新しい位相空間である。

 

考察

形而上の認識から形而上の空間を作ってしまった。(と思っているだけ)

0, 1, \inftyでシンプルに書けて一瞬天才かもって思ったが、そんなことはないただの妄想だった。

0, 1, \inftyのような数学で当たり前の記号も実は明確に定義するには難しい。)

ε-δ論法のδを素朴な認識が捉えているのも変だし、素朴な認識以上の認識とはなんなのかもよくわからない。

開集合の定義がないことに後から気づいたがめんどくさいから自明にしておく。

不定形には7つ種類があるが、式変形すると\frac{0}{0}, \frac{\infty}{\infty}になる。

ただ不定\frac{0}{0}, \frac{\infty}{\infty}をカッコよく書いてそこからすごい不定な何かができる!そしてそれを1_mとしたときのそれが創造物でメタバースでしかしできたと同時に創造物ではなくなり、形而下のものになる! 1_mは私の範囲で私が決めていい!ということを書きたかった。つまり最終的には 1_m \in U_p(x)なのだが、 1_mができた瞬間は U_p(x)に含まれるとは限らない。

I_p(x), U_p(x)微分できるのかどうかはわからない。できるならばこの定理はもっと間違えている。

I_p(x), U_p(x)は上下入れ替えることができる。これは宇宙の中に私がいるのか。私の中に宇宙があるのか。哲学の標準的な難問と考えられる。(本当かぁ?)

過去の先人達の

・「色即是空 空即是色」

1_mが「解脱」(恣意的)

ニーチェの「創造的破壊」

宮沢賢治の「道義上の個人主義

などの概念に近いと思う。(要検証)

人間と他の動物の違いとしてよく取り上げられるのは言葉や火とか具体的なものだが、私は素朴な無限を感じ始めた時だと思う。

人間の前になる状態の動物が数える能力を獲得し、無限を感じて初めて数学ができた。

その普遍的なものを表すために具体的な音声にしたものが言葉だと思う。(妄言)

言葉にはとても強い力を持っている。なぜならとても普遍的だからだ。

命名された個物は決して名前負けしてはいけない。(私の感情がそう決めた)

しかし言葉はとてもいい加減だ。「言葉の呪い」とでも言おう。厳密に対象物を認識するにはしばらくの間はまだ数学であろう。(形而上の数学に限界はないが、記述には限界がある。)数学は論理で冷たく感じるかもしれないが、実際はとても情緒である。諦めたい心と戦っている。

 

ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言った。

おおむね同意するが、私の考えをもっと正確に記述するならば私は語りえぬもの「のようなもの」は、世の中に溢れており具体的な形になっていない抽象段階では語り合うことは良い(自分勝手)とは思うが、何か具体的なものを「語りえぬもの」として語り合うのは何も語り合っていないと思っている。
真の「語りえぬもの」は語ることすらできないと思っている。

「語りえぬもの」は感情から出るもので、加算濃度の記述では表現できない。

恐らく創造物は「素朴な認識」が認識できていなかったものに苦し紛れに名前を付けて初めて「語りえぬもの」になったと同時に語りえぬもののようなものになるのだと思う。

個物にそのような名前が付いているということはそれは「語りえぬもの」ではないということだ。

まだ成長過程のVR空間をメタバースと名付けるということは真の「メタバース」には到達しないということを意図せず述べてしまっていると私は感じる。あるいは具体的な部分ではまだまだ発展するがより「核心的な部分」を勝手に完成させられたように感じる。

今あるメタバースというのは私に言わせれば「意識の美術館」と言えるだろう。美術館の外にはまだ空間が続いている。これは人間が過去に作り上げた創作物すべてを含む。

なぜ完成していないものを自ら壊そうとするのか。

もっと言えば「メタバース」は日々の生活の中に宿っていて誰もが感じ取れるものなのに具体的な個物に名付けてしまった。独占されたようにも感じる。

しかし、相手の「心の拠り所」を壊したくもない。恐らく「普通の人間」は「素朴な実在」に生きているので具体的なものにしか「心の拠り所」を感じられないのだろう。まるで私が「普通の人間」でないような言い方だが「普通の人間」だろう。ただ未だに「心の拠り所」と感じられるものを見つけてないからこんなことをしているのだろう。あるいは何かを創造することが「心の拠り所」かもしれない。よってまた新しい概念を考え、そちらに力を入れたほうが良いだろう。それを見つけるまではもうしばらく居候する。

現代になっても普遍論争は終わらなさそうだ。

いや厳密な普遍をより多くの人に感じて頂けるように今後私は努めて行きたい。

 

とても投げ遣りかつ支離滅裂な文章で申し訳ない。くだらなすぎて記述する気力が湧かないのだ。なぜなら何も語ってないからだ。

もっと具体的なものを考えたほうが楽しい。

追記:ちゃんと調べたらただのゼロ除算だった。

ゼロ除算 - Wikipedia

そこの記述にものの見事に言い当てられてしまっており、大変反省している。しかし情緒であることには変わりはない。「感じる」と「観じる」の違いだろうか。(あれ?ただのお気持ち表明では?そうだとしたらマジもんのバカやん)

追記:あー、実数を前提にしているからこの結論になるわな。アホである。これリーマン球面の無限遠点の発想では?もちろん前提は複素平面である必要がある。拡大実数じゃん。測度論もここ通ってそう。

さらに追記:あーだめだこれ。認識の要素の間に距離構造がないので、ε-δ論法使えないや。おまけに認識の連続について言及していない。さらにI_p(x)でもう一人の自分を勝手に作っちゃてるし。