不可知論探究 ~無の種類~

思想は過程の問題。

人類の全ての目的は幸福を追求するためである。

思想は手段でしかない。

我々は手段であったことを忘れてしまった。

真の解脱は死によって達成される。

理性には限界があり、その次に感情の限界にぶつかる。

存命の間で得る大小さまざまな悟りは不完全な解脱である。(そもそも解脱はイデアである)

このうち、最大の悟りへの過程は無知の知を悟りの出発点として、真理追求への終わりのない探求を悟り、そしてその境地へは到達不可能であることを悟る。(認識の限界、技術の限界、数学の限界、有史以来の心の探究や今日の科学技術を以てしても判断できない、かつ到達できない領域を人類は発見した。対象がはっきりしない世界)

ここで最初の知を得た瞬間を思い出す(逆観)。それは初めて、個人が発見した対象である。(知もイデアである)(全ての対象もイデアである。なぜなら本質を理解せずにラベリングしたから)

それは我々が最初に自我を持った瞬間である。我々はそれ以前のことを思い出すことができない。

恐らく我々は自我の形成には対象の発見が先である。(肉体があってからの精神だから→要検証)

我々は無知という対象を知を発見した上で発見した。

その後、更に「無〇と〇(〇は任意の記号或いは空集合)」と抽象化することで、無を発見した。

しかし、(カントの物自体を補助に)あらゆる対象を理解できないということは、その前提が崩れた以上、無を理解することも生きとし生ける者には未来永劫不可能である。

実は人は何も発見していないのである。

物心着く以前の状態は、肉体が有っても、精神が無いという「特殊な無」を体感する時期が我々にはあった。

肉体も精神も無い「無」もあったであろう。

しかし、我々が想像できる無は「生前の無」のみである。(無因論回避のため)

無にも種類があるようだ。

それぞれの状態を体感できるのならば、異なる無を創造するだろう。

無もイデアであったのだ。

私はここで強気に出る。

「生前の無」を公理(恐らく人類が共有できる概念の限界)と置くことで、あらゆる対象(神も含む)は我々の創造物となる。そうすることで有限のようで無限の対象という真理が埋蔵された無限の開拓領域を得る。(ただし万物ではなく局所的な真理)

これまでの「生前の無」の公理化の過程は、対象の発見、発露の過程の分析によって起源を知る。そしてそれを基に応用するである。

これは科学の研究活動と同等である。

この世は無限であり、自由である。

私は、「生前の無」の公理化が唯一世界中の文化の違いによる全ての対立を乗り越え、次の時代へ進む原点だと考える。

神と違い創造の自由を選択できるのに対して、無のみが論理的帰結で全ての人類が創造せざるを得ない対象である。(空集合∅が対象のように)

こうすることで人類が体感するすべては創造物であり、自由に建てたり、崩したり(脱構築の達成)することが可能である。常識という呪縛からも解放されるだけでなく、非常識を心置きなく楽しめる。(イデアは創造物である)(ポスト構造主義の完成)

こうすることで全ての発見も「発明」に変化する。

更に現在の不完全な自由から完全な自由に到達する。

野心的な真理探究から開放的な真理探究に変化する。つまり真理探究という苦しさを含む行から、快楽追求の行のみが残る。幸福追求の点から快楽的な行は生きている限り終わらない。

不可知論は理性と感情の折り合いである。存命間において、最大の苦悩からの解放で、解脱に最も近い思想である。人類が獲得できる苦悩を解放する悟りとして最高にして限界である。

悟りは幸福追求の手段である。

仮に更に驚くべき人類の世界観を変える「発明」があっても、揺るがない堅牢さがこの公理にはある。なぜならその「発明」は対象であるから。

仏教のイデア的な輪廻解脱は不可能である。

地球外生命体発見までは人間原理で良い。

 

人間がA⇔Bと判断しても、動物はA⇒Bを判断しても、B⇒Aと判断しない。対象を認識するには対応関係が必要だが、これは人間の脳のバグと考える。
「1+2=3」の左辺等辺は等号であるが、動物には理解できない。

1+1=2となるのは1がそれぞれ「独立」した対象であることが前提である。

泥団子のように1+1=1となることもできる。

数学的な対象は「独立」であることが前提である。

しかし、今まで述べてきたように対象が「独立」であることは保証されていない。

我々が恣意的に「独立」と仮定した。

「独立」した対象も創造物である。

Game Bar Capturesのギャラリーの保存場所がおかしくなった時

概要

キャプチャの保存先をGUI上で参照先を変更できなくなってしまった。

参照先がTempフォルダになっている。

Xbox Game Bar(Game Bar Captures)の修正やリセット、再インストールを行っても直らない。

原因

録画した動画を格納するファイルが入ったドライブをPCから移動させた。

解決法

  1. windowsレジストリエディターと検索
  2. HKEY_CURRENT_USER\SOFTWARE\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\User Shell Foldersに移動
  3. フォルダ内から…\Videos\Captures%USERPROFILE%\Videos\Capturesに書き換える
  4. PC再起動
  5. win+Gでギャラリーの保存先を指定できるようになる

まとめ

ドライブの移設は慎重に行いましょう()

wingetコマンドが認識しないとき

概要

windows10環境にwingetをインストールしたはずなのに、管理者権限でpowershellを起動してもwingetコマンドが通らなくなった。

wingetの再インストールや再起動しても改善しなかった。

原因

wingetのパス情報が失われたため。

解決法

ユーザ環境PATHを直接編集する。

まず、windows上でwingetを検索する。

ファイルの場所を開くからwingetのPATHを取得する。※検索してもwingetが出ない場合インストールできていない。

windowsからシステム環境変数の修正を検索し、環境変数のユーザー環境変数PATHに取得したPATHを追加する。

結果

powershellを再起動してwingetコマンド入力する。問題なければ、コマンドが通る。

良い精神論と悪い精神論(個人的主観)

研究とは学問における新しい価値創造である。

そしてそれは人間の真理を得ようとする精神的活動である。

学問は基本的に演繹的な活動である。

実験という帰納的活動は最終的に演繹に利用する材料である。

学問は人間の好奇心を元に活動する。そして学問は研究者の主体性によってなされる。

これが良い精神論である。

一方、近代の学校教育は悪い精神論である。

感情的に激怒する教師や根拠のない精神論、規定のない連帯責任、人格否定は子供の創造的活動を抑止する。(むしろ子供を動物だと無矛盾に思っている。子供が動物か人間かは議論の余地がある。)

抑止された児童は創造的な活動をできないので、大人になると再生産される。

負の連鎖である。

社会は創造的で主体的な人物を求めている。これでは本末転倒である。

そういう人間になるように育てたにも関わらず、この掌返しである。悪徳である。

創造的で自由な社会には暗黙の了解や常識などという固定観念はない。

全ては空だという前提で価値を各個人が創造できるようになれば良い。

そうなればその個人は真の自由と責任を得る。むしろ創造できないということは自由も責任もない。

 

個人が考える”客観”は客観ではなく「客観」という概念である。そしてそれは「主観」の集合である。「客観」は存在するが、「客観は存在しない」という命題は証明できない。

評論文で用いられる「一般論」というものも「主観」の集合であり、その文の展開は「客観」の拡張である。これも新しい価値を創造している。

世に蔓延るあらゆる既成概念は元を辿れば全て個人の観念である。学問はその中でも反証に耐え抜いた固定観念である。しかし、それが未来永劫君臨し続けるとは限らない。常に疑うことが結果として学問に対する正しい姿勢となる。

 

人は産まれたときには既に過去の人間が創り上げてきたあらゆる「価値」に囲まれている。「常識」というのはまさに共有されて来た「価値」であり、教育で「常識」の「価値」を学ぶ。しかし価値そのものは自分で創らない限り対象の本質はわからない。「常識」の価値、意味を理解するためにも、「常識」を構造で把握する必要がある。本来、先人から「常識」を引き継ぐ場合、形だけでなく意味を継承しなければならないが、どうやら後継者に伝わっていないかあるいは先人に伝える能力が欠如しているようである。それだけ意味を伝えることが難しいということがこれまでの人類の悩みであったであろう。人間は有限であるので、その情緒的な意味を伝えることは無限を有限にインプットするようなものである。当然処理は一向に終わらず、処理落ちするか、エラーを吐き出す。処理落ちする場合は学問に向かうであろう。エラーを吐く場合は、その局所解あるいは丸め誤差を許して生きるか、感情的に許せなくなり、破壊活動に向かうかどちらかである。

 

価値観は遺伝しない。よって「暗黙の了解」は明確に意味を後の世代に伝えなければ継承されない。「阿吽の呼吸」や「以心伝心」などの慣用句を知ると一見、数百年、数千年価値観を”意図せず”共有しているように思うが、これは大きな間違いである。「最近の若者は~」という若者論が出現する原因は価値観は遺伝しないという前提を忘れている。それを伝えることが本質的な「教育」であるが、グローバル化は外来の価値観が入ってくることによってローカルの価値観に影響を及ぼすのであろう。であるならば、グローバルの価値観を前提に「教育」を施すことが今後の方針になるであろう。

 

欲深さも個性や才能、能力である。

欲を出すべき領域と欲を出すべきではない領域がある。

時と場に合った使い分けをするには訓練が必要である。

 

名著を読むのに苦労するのは、その時代の一般的な価値観を感じ取れないからであろう。現代語訳してほしい。あるいは自動的にその時代の価値観に合わせられたら良い。

 

子供は親の背中を見て育つ。ということわざがあるように環境は子供に影響する。

「阿吽」から阿吽へ

人間は真理ではなく、創造された「真理」を根拠に行動している。

無、空、「空」、「無限」、無限の区別がついた。

「空」、「無限」は社会で共有される最小と最大である。閉区間

空、無限は個人が感じられる下限と上限である。開区間

無は上の有界でない領域である。

創造する(動詞)とは無から有界領域への写像である。「創造」は「脳内の創造」「具現化した創造」に分けるとする。

「脳内の創造」が上の開区間から閉区間を除いた領域である。

「具現化した創造」が上の閉区間である。

どちらも写像の終域である。

数学が難しく思われる理由は数学の「言葉」が名詞だからである。しかし、意味としては動詞である。「言葉」は静止しているが、言葉は生きている。

(両方の側面を持つので動名詞である。そして「私」も動名詞である。)

数学の本質は本能的である。数学はアートである。

そうすると数学の本質は官能小説や絵文字の本質と「近い」関係にあることが分かる。

ただ十分で適切な表現(記述、発声、ジェスチャーなど)がなければ「他人」に誤解される。

数学に限らず、記述された「プログラム」もダイナミックに感じる。

 

数学の「証明」は音楽で言う「楽譜」である。そして数学の意味の理解は音楽で言う演奏する(動詞)状態である。

 

数学的対象は人間の思考が生み出したものである。

 

無駄に抗うと損をする。(当たり前)

 

「意味」は行動することでしか得られない。「記述」や「マニュアル」、「証明」、「プログラム」などといった「概念」は形式でしかなく、「空」である。「空」の中の空(現実世界に存在するかもしれない真空とは異なる)に「」で囲う行動をして、「」内に”不純物が混入して”(あるいは不純物を混入させて)初めて「意味」という対象が現れる。

エウレカ!

わかったぞぉ

数学の構造は命題論理と述語論理の塊であって、述語論理に重きを置いている。

しかし、対象を数学そのものにするとメタ数学になってしまう。(公理型のように)

それでは哲学になってしまって、対象が数学的な対象ではなくなってしまう。

真偽がはっきりしている命題に述語論理を考えてしまうと、それは新しい問になってしまい、数学的な構築にならなくなってしまう。

述語論理の終着点は空である。

また自然数の性質(1,2,3,4,5,...)を形式的な推論規則で記述するために数学的帰納法を”公理として仮定しているのである。”

つまり論理は後付けなのである。自明(のよう)な自然数を数学的な対象として述語論理を付加したら、空が現れるのは当然である(と思う)。それでは対象さえなくなってしまうので考えることができなくなってしまう。

なのでその場では真偽がはっきりしている命題(あるいは定理)は共有された真として数学を構築するべきである。

すべき構文としたのは情緒である。

なぜ情緒が発生するのか。それは人間が社会的な動物だからである。

なぜ構築が発生するのか。それも人間が社会的な動物だからである。

述語論理が代入した「空」も記号でしかない。「空」には意味がある。空には意味そのものもない。対象として捉えることすらできない。

なので「空」の代わりに入れられるものはいくらでもある。ただし、それは個人が「創造」したものである。

もし述語論理で「空」に出会ったということはまだ自力で「創造」をしていない証拠である。

なので創造は論理と情緒の止揚である。「創造」に「公理」は含まれる。

「公理」は論理と情緒の止揚である「創造物」である。

なぜ「創造物」がいるのか。それは人間が社会的な動物だからである。

本当に完全に独立した人間ならば、これら全てはいらない。

もし仮に社会性があり、かつ個体ごとの意識が完全に共有されていない宇宙人がいるならば、これらは発生するだろう。

人間(個人)が「存在」する(動詞)には「社会」から「創造」を求められている。

「幸せ」という概念も自力で創造する(動詞)「創造物」である。

全ての動詞は創造的である。五感「見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ」など一見受動的な動詞や使役的な動詞も能動的である。受動的、使役的な動詞は能動的な動詞以上に存在しないのである!

釈迦は物語の終わりではなく、はじまりである。

 

 

 

 

数学的ドッペルゲンガーは自分自身と完全に等しい自分が自分と完全に重なる動き、位置にいる。つまり本当の意味で完全に置換されている自分がいる。(外部なのか内部なのかわからない。)

そして私は置換された自分(無限個同時に生成可能)の中から”無作為に”(並べていないから)一つを選択して、それを「私」としているのである。「私」以外はどこかに消えるのである。うぎゃぁああ~。

 

人間は間違える。ある程度までは間違えることを許される社会が必要である。その匙加減は社会が決める。

 

私は自分が「創造」した「構造」を「信頼」している。

数学においては数学の定理は全て説明可能である。説明できないのは理解できていないか、行間を埋める能力に欠ける。

日常会話では説明できないことがある。なぜなら「常識」という実があるからである。それを疑い始め、述語論理を付加すると「常識」は空になる。

分解、理解、再構築である。

 

 

 

人々やさらに自分さえ何を求めているかわかりづらい世界では創造する(動詞)ことは他人にとって良いだけでなく、自分を形創ることにおいても重要になるであろう。

 

※以下の記述は特にデタラメである。

追記:例えば実線形空間を抽象的に記述すると(R,+,)となるが、Rを公理的集合(この前提は大事。素朴な意味ではない)とすると、集合をメタ数学的に捉えると()の中の要素は全て構造になる。それらすべてが構造ならば構築(構成)可能ということでもある。つまりこれらは数学における創造の結果(記述)である。すべてを動詞と捉えることもできる。ここで危ういのは数学的対象まで消えてしまう点である。なのでこの立場は数学者に嫌われる。では()は何なのか?とりあえず私は人間の認識領域と仮定する。なんだか連続体仮説みたいな感じがするが、検証してない。(多分間違っている。)

人間の能力は有限である。使える時間も有限である。人の差は微々たるものである。自分よりも認識能力の高い人間がいるように感じる理由は有限の人間がその対象を把握できていない証拠である。拡大された人間像である。人物の神格化もこのように発生する。

現実世界における客観的な真理は未だかつてない(将来到達するかもしれない)。共有できる現象世界における客観的な「真理」は存在する。

しかし、真理は個々人に宿るものである。個々人はその真理を元に創造して(動詞)現象世界に「創造」を具象化させるのである。

 

他人の記述を読み取るのは難しい。いや行間を完全に埋めて記述することもすべてを記述することもできない。恐らくここの記述も読者に伝わらないであろう。(伝わるように記述しても)

 

人生は短いとか長いとか言うが、どちらも形容詞なので、どちらも曖昧である。実体験としては今ある現在だけである。思い起こすときも現時点から能動的に想起するため有限の思考能力では記憶の断片しか見えない。なので短いも長いもなく、「現在」しかないのである。「過去」も「未来」も「現在」の自分が創造した(過去動詞)「創造」(事柄)である。

人間は任意の観測可能な「現象」からある「現象」を「私」として「「私」」を創造する。「「私」」は私である。排中律である。

 

「価値」という概念も厄介である。他人に「価値」があると思わせる能力が必要である。「価値」も「創造」の部分空間である。

「想像」は集合。「創造」は集合に構造が加わった空間。(創造する)は集合を使った構造の構築。

 

すべてに空があるならば、すべての空に「空」あるいはいかなるものも代入できる。代入した概念が「心」ならば汎神論に行きつく。ただし、対象は何も反応を示してくれないので、「人間」のような「心」を持つことを検証できない。人間の「心」という概念も対象としてすべてを把握できているのかできていないのかわからない。というか把握できないように常に「創造」している。普遍から常に意識的、無意識的に選択している。人間には「心」があるという”絶対的な仮定”(公理)によって人間社会は成立している。ない!としても良いが、問題は多くの物を構築できなくなる。現代社会は人々の趣味である。「心」があり、さらに人間社会在っての構築である。社会がなければ人間的推論思考はいらない。理性があっての構築である。まとめると、「心」を公理として自分以外の似た現象を「他人」として「自分」を含める社会の中で理性を使って「社会」を構築する。密教の「真言」も真理ではない。「真理」である。大日如来が”本当に”普遍ならば、真理を理解しているかもしれないが、語ったのは「真理」である。残念ながら人が記述した大日如来は「大日如来」なので、普遍ではない。

 

信徒になることは「空」であることに気づき、「空」を置換する能動的な活動を「悟りの境地」というのかもしれない。「護摩」も過程に過ぎない。

 

しかし悲しいことに「創造」も「他人」に理解されなければ「創造」として認められない。生きるために創造するが、「創造」と認められる領域は限られている。つまり間に「理解される創造」は「個人の創造」の部分空間である。写像の終域は選択しなければならない。「善」も個人の「創造」である。

 

人間は生物学的には哺乳類の仲間であるが、「社会的な動物」という位相空間では、人間は猿よりアリに近い生き物である。自律したキリギリスに成りたいものである。

1+1=2を理解する子供もその時点では高い「創造」を伴う。しかし、私が知りたいのは「持続的な創造」である。それを知るには経験はその全体の部分空間であろう。

 

21世紀初頭は十分に査読、精査されていない情報が溢れ返った時代である。(情報を得られないよりはマシ。)しかし、そのような環境下でも過去の格言以上の「凝縮された情報」が生まれる場合がある。専門書を読むことを勧める(難解だが……)。

「読解力」なんて概念も、ある人間の集まりである「社会」における「暗黙の了解」である。不完全な論理によって運用されている。「読解力」がないということは、その「社会」の構成員としての資質が十分ではない証拠である。(と同時にその人間は「社会」に帰属していないと感じている。(すべての人は「社会」に「帰属」していると思っているが、社会には帰属していない。)子供の「読解力」が落ちているのは、「社会」から孤立していることでもある。)ただし現実の「社会」の領域はこれよりも広く不足していても人は生存している。これは情緒も含めた結果である。世俗的な「読解力」は長い歴史の中で「構築」された「創造」である。識字率は高いが「読解力」がない人間が増えるということは、その「社会」が「空」である証拠である。人は「社会」から消えた。しかし、人は「一人では生きていけない」ので表面化されない「新しい社会」を何処かで「構築」している。「機密情報」の空間の中なので基本的には「観測」できない。だからGAFAビッグデータを集積しているのだろうか。「読解力」も絶対的な概念から、「道具」の一つになったのだろうか。

 

創造する(動詞)とは情緒と論理の止揚である。

「創造」とは情緒と論理の先にある端緒である。

 

「選択しない」という「選択」はあるが、「選択しない」という選択はない。仏の世界が数千年経っても実現しないのは自己言及のパラドックスによる。「選択」の中から「個人」にとって「正しい」と思う選択をするだけである。

 

 

「新卒」という概念が残っている理由は「企業」が自分たちには十分な「価値」がないと「無意識」に認めているからである。「価値」があると思い、かつ「価値」を作る行動をしているならば優秀な学生を探すはずである。(「価値」がないと思われたら、「新卒」は逃げていくが……)しかし、「企業」もあらゆる「概念」と同じように有限なのに無限を醸し出すので「新卒」という概念はなくならない。「新卒」も「企業」が有限だと気づいた上で、企業のパフォーマンスに躍らされずに、如何なる場合に於いても創造するという行動をする。「社会のレール」も中間層が勝手に「創造」したものである。「企業」も元は「創造」である。いつの間にか最初から其処にあったと思い込んでいるのは間違いである。「企業」は変化することを拒んでいるかもしれない。偉い人はいない。「偉い人」はいる。なのですべての人を「偉い人」と言うことは可能である。

「終身雇用」の時代は終わったので、自ら創造する力が必要だが、(「良い創造」を)創造するには「本質」が見えていないとできない。「本質」を得るために分解していくのだが、「有限の立場」がたどり着く先は真理ではなく「限りなく空」か「空」である。「空」の状態において「真理」を創造し、「真理」を根拠に「創造」を創造する。ただ「創造」した物をまた分解すると「空」になる。「分解しない」という「選択」はある。世は「不条理」だが、同時に「自由」でもある。

 

人間は概念を文字や音声、絵画、映像などを使って「概念」に具象化でき、個体同士で「概念」を共有できる。これが人間以外の地球上の生物にない人間の強みである。しかしこれは矛盾を引き起こす。相対主義の主張の根幹が絶対主義になってしまうパラドックスも創造する(動詞)ことで発生する。なので矛盾する要素という「選択肢」から選択する必要がある。それが新しい「創造」に繋がる。「すべての人間」を対象とした時、「すべての人間」に優しくすることは可能である。ただし、観測者はその集合に含まれない場合に限る。(聖人、人格者)

 

「象徴」は「社会」を維持する上で重要である。人間の何処かに「帰属」したいという欲求の中で最も抽象的な「概念」である。ただ個々人がより自律すれば、「象徴」の重要性は下がる。「大人」は「自律」、「自立」という状態ではあるが、自律、自立はしていない。「社会的な人間」である以上それは不可能である。「社会的な人間」でないなら一応可能ではある。

 

「他人」も「創造」の部分空間である。「他人」も人が作り出した「概念」である。人間は物心ついた時には目に見えるほとんどの現象に「意味」を「創造」し終えている。「大人」は「意味」がなかった期間を忘れてからかなり長い時間が経つ。「意味」がなかった時を思い出すことが「破壊」で「創造」に繋がる。(ただし人は「現在」からの視点しかないので、思い出したものは「創造」である。「破壊」も「創造」の部分空間である。)

「他人」という「概念」を最初に「発明」した人間は「天才」だが、「概念」を疑わずに利用した人間は「他人」に「利用」される。

私と「私」と「「私」」とは(蓋然的)

※以下の文章は釈迦に説法である。

また心理的に傷ついても責任は負いかねます。

 

 

 

私とは「「私」」が観測した物質である。

「私」とは私を構成する物質が構築と崩壊を繰り返す現象である。

「「私」」とは「私」が創造と破壊を繰り返す概念である。

 

 

 

循環論法

一番と二番の文はアプリオリな分析判断である。

三番目の文はアプリオリな総合判断である。

この問いそのものには意味がない。

ここに出てきた創造という概念が重要である。

 

 

何かを作る範囲の中で独創は一番難しい。

独創の過程は孤独だが、孤高に成り得る。

そして独創なしで文明は進歩しない。

ただし全ての人間が独創をする必要はない。(独創はある人間の必要条件)

全ての人間は独創を含まない創造の領域までで十分である。(創造は任意の人間の十分条件)(創造の範囲は広い。ここで言う独創を含まない創造とは、狭義の創造である。)

包含関係(必要十分条件など)が良くわからなくなるのは、対象物を明確に把握していない、あるいはできないからである。例えば「リンゴならば果物である。」という命題である。この場合一般的には果物はリンゴの必要条件で、リンゴは果物の十分条件だが、絵に描いたリンゴは果物だろうか。ということで果物の定義を見てみよう。

果物 - Wikipedia

果物は食用になる果実とある。つまり絵にかいたリンゴはリンゴの集合に含まれるが、果物の集合に含まれないのである。なぜこのような現象が起こるのか。それは果物という概念がリンゴを囲えなかった、あるいはリンゴという概念が拡張したのである。(今回は後者である)

より詳しくは部分集合を調べてください。

部分集合 - Wikipedia

また、論理包含と部分集合は異なる。この二者は直感的に似ているため混乱の元になる。命題論理と述語論理の違いはここで現れる。

論理包含 - Wikipedia

上の場合は、一部の人間が「人間」という概念を拡張するのである。それが独創である。ここで気になる点が、「有限の立場」である人間が、普遍的な対象物を概念で囲い込めるのかである。上は人間を対象にしている。矛盾に気づくだろうか。人間を有限と仮定したのに、人間を対象として観察したら無限に感じるのである。(観察や証明が有限な手続きだからかもしれない。)矛盾である。仮定が間違っているのか結論が間違っているのかわからない。あるいはどちらもか。(ちなみにこれは自己言及のパラドックスになる(はずである。)。私が観測する私が客観的な対象ではないからかもしれない。あるいは創造した自分という対象が自分の外に出るから感じるのかもしれない。よく自分を客観視するというが、対象が自分なのか。認識しているのが自分なのかわからなくなる。ドッペルゲンガーである。認識している自分が対象の自分に含まれないのである。一人作れるなら無限に作れそうである。さらにその一人一人が構成する要素が無限なのである。数学は公理を設けることでパラドックスを無視した。日常言語が曖昧なのも原因である。仮定も結論も曖昧だからかもしれない。しかし他人にはどちらかさえわからない。記述は有限なので、自分を包含する概念で無矛盾に論証すれば他人は真であると感じる。たとえ自分自身が嘘だと気づいていながらでも……。無限の概念があると過ちを犯さないが、解が出ない。公理が必要である。吹っ切れる瞬間である。この気持ち悪い現象が起きるのは選択公理のせいでは?)すべての人間にとって独創と感じるものがあるというのは人間という集合が有限だからである。有限なのに常に拡張しており、普遍的な概念(「有限の立場」が作った)でさえ囲えない場合が出てくるのである。しかし、無限だからと言って有界でないとは限らない。さらに有界だとしても、開なのか閉なのか(あるいは開かつ閉)わからない。(仮想世界は有界だぁ!)創造という概念は普遍的である。しかし創造という言葉には中身がない。創造は開かつ閉集合(空間でさえない。つまり構造がない。逆に言えば構造を作るだけで十分である。)である。真の意味での創造(独創)は差異を作り、存在を作り、それを元に構造を作り、空間に仕上げる一連の活動である。現代社会は差異が多すぎて差異を作りにくいのかもしれないが。(仕事を創る難しさ)空間がブラックボックスになったら存在だが……。(このような現象を体感するには無限級数が発散したり、収束したりする現象を目の当たりにしたら理解できるであろう。それだけ深いことを数学で学べる。概念にも抽象度がある。)

「普遍性」の中で「有限な立場」である人間が「創造的」な活動をするのはそれだけですごいのである。(砂山から宇宙船まで)しかし、つい百年前まで創造に必要な論理という道具が未熟だったのは悔やまれる。(構造を作る道具として不完全であった。)新しい論理の発明により今の情報社会はあるが、論理の更なる開発が進まなければそれも頭打ちである。更なる新しい論理の発明には数学や自然科学における「発見」が重要になってくるであろう。(必ずしも道具ではない論理もある。有限集合の直観主義論理など。(いやこれも使う人が現れたら道具なのでなんとも言えない。少なくとも現段階ではまだ道具として使えるほど成熟していないはず。うーん……。情報科学なら使えるかなぁ……。少なくとも数学で使うことはできない気がする……。追記:あーこれがカーリー=ハワード同型かなぁ~?情報科学の論理やなぁ……。)道具の集合に論理が含まれない場合がある。道具の定義が必要である。論理を道具として扱うか研究の対象とするかで概念の領域が変化する。これは数学と物理学の間にも見られる。情報科学圏論の扱いとかも。恐らくそこらじゅうで起きている。)

道具 - Wikipedia

科学において現実の「普遍性」を記述するには検証より反証が大事になるかもしれない。(反例と反証は違うみたい……。よくわからん。)

 

追記:ガリレオの名言である「自然という書物は数学の言語で書かれている」には注釈が欲しい。ここで言う自然とは人間が対象として認識する自然であると……。

 

余談:スーパータスクを知る。

スーパータスク - Wikipedia

 

さらに余談:人間はついついフレームで考えてしまう。(あるいは実際にフレームに入っているからか。現実の宇宙は開なのか閉なのかわからない。閉なのは今ある宇宙だけである。つまりコンパクトである。わからないので、とりあえず開かつ閉にしておくのである。現実の宇宙は有界であるかもしれないが。)逆に言えばほとんどの概念はどこかで収束するのである。市場経済に限界を感じたりするのもこの「市場経済」というフレームで考えるから限界を感じるのである。(現実世界では社会主義が先に収束してしまったが……)人間は矛盾を抱えている(私が実在するのも怪しい)ので資本主義が不安定なのは自明である。もちろん「市場経済」を前提に良い結論に至るかは「結論」に達するまで(そもそも達しないのでは。まさに形而上)わからない。

選択公理は大事だなぁ。当たり前。ただこれは「普遍性」から部分写像された「創造」という集合(の部分集合である「数学」という集合)の部分集合である「道具」という集合の要素である。(部分写像のところで選択使ってるやん!って思うが、敢えて無意識の選択とする。公理化した方は意識的な選択である。苦し紛れの分離……。ここで初めて自由意志を手に入れる。と同時に構造の中にいることに気づく。構造の外に行くには手に入れた自由意志を手放す必要があるだろうか。それとも自由意志に基づく構造を新しく作るのか。この先は情緒次第である。どちらを選んでも創造である。ただし前者は創造を共有できるかできないか後者以上にわからない。)

 

さらにさらに余談:禅問答の問題は論理が弱い点である(古典論理以下)。情緒的な「悟り」を開くには一対一の対話が必要である。これでは非効率なので、整備された論理が必要である。本来大事なのはその先の「創造」である。

神がいるかいないかも個々人が自由意志を前提に「創造」したなら個々人の観念の世界の中に実在する。逆に権威や人から教わって知った「神」は客観的にも個人の観念の中にも実在しない。

 

必要十分条件を考察した。現実にある物体が、人間の認識の中で対象として現れるということは、その物体が必要だと個人が選択したのである。物体がまだ認識されていない状態から認識の中に入るということは人は「必要」という操作をしたのである。またその物体も「十分」という操作をして個人の認識に入ってくるのである。(現実世界が認識の外を含めている領域と考えた時点で「創造」である。しかし検証できない。反証できるか今考えている。たぶんできないので、これは科学ではない。)また、この構造は日常的に使っていて、そして複雑な階層構造を成している。階層をはっきりさせるには主語が大事である。主語が曖昧だと客観的に判断しづらいからである。(主語が曖昧でも個々人の能力で補うことができるが、能力に差があった場合、発言者の観念の世界を会話に参加している人同士で共有できない。)

 

対応確認:このブログで使っている概念と仏教の概念の対応が見えた。

・「普遍性」は無

・公理は有

・論理は空

・情緒は実

このことからもう一度まとめると

「創造」とは創造でできた「公理」を元に論理と情緒の止揚である。

創造とは論理と情緒の止揚である。

(あれ?最初の創造は情緒では?

情緒を有界な非可算無限集合で論理はその部分集合としてみよう。

情緒の誕生と同時に論理が誕生するのか。或いは論理は情緒の後かわからない。

いや創造は情緒から論理への全射な部分写像であり、

また逆写像である「創造」は論理から情緒への単準同型写像に見えてきた。

写像がなければ創造はない。

あれぇ?創造が写像に見えて来たぞぉ~?つまり選択して操作する。

論理も「創造」された要素に見えてきた。

書いててなんかおかしいなぁ……。どっか矛盾している。クソ。

曖昧な「好奇心」という言葉で覆えばコンパクトやなぁ~。これも選択である。証明を簡略化して先に進める。これは選択した上での操作である。つまり選択無くして操作はない。後で致命的な問題が発生するかもしれないが……。しかし操作無くしてどのような現象も発生しないので、選択をする。選択自体も「何かから」の操作のような気もするが……。もう良しとしよう……。「表裏一体」で覆えばまたコンパクト~。etc...

そして「創造」は空になる。つまり論理の部分集合になる。コンパクトである。

本質とは実が含まれているように感じられる可能性がある、あるいは本当に実のある概念である。

「本質」とは実が含まれていると感じる概念である。

「創造」が「本質」と対応する。

「本質」も空である。これが「実存」と対応する。

数学における「創造」は「定理」である。

しかし、数学者が創造するときは「定理」ではなく、実のある定理なのである。

実、は意味と対応する。

意味は共有されない。共有されるのは「意味」である。(だから「意味」の意味は記述できない。つまりラッセルのパラドックスである。)

情緒は共有されない。共有されるのは「情緒」である。

私は共有されない。共有されるのは「私」である。

では「私」が私を感じているだろうか。どうもそうではなさそうである。

私、「私」、「「私」」といる。実は共有されるのは「「私」」である。

「われ思う故に、我あり」は「私」に対応する。

「私」は私を把握していない。「私」は空であるが、私は空か実かもわからない。実か有かもわからない。とりあえず実にするのである。生きている間は。

あれ?これいくらでも階層作れんじゃね?言語があかんのかなぁ?やっぱり生きているということは有を公理にするんかなぁ。実は有あっての概念かもなぁ……。逆かもしれないなぁ……。わかんねぇだぁ~!少なくともこの辺はあと数百年は深堀する必要はないなぁ。むしろ論理の整備を優先したほうが良い。それからまた考えれば良い。

これはクラス(類)の概念だろうか?(「」の付け方がところどころいい加減である。なぜなら記述に矛盾がないか識別できていないからである。)

 

なぜ言い訳がダメか。なぜなら全ての人が言い訳できるからである。「言い訳」が語っている内容は語り得ぬ世界のことである。結局人間の脳なんてものは食い扶持を得るために自然の中から産まれたとしか言えない。これはコンパクトである。コンパクトは直観的には境界を持つことである。つまり実と「空」の和集合である「有」である。人間(個人からすべての人間まで数は様々。ただし有限の自然数である。)の創造が含まれる。仏教は創造までは否定していないはずである。(検証していない)

「神」という概念も聖職者、貴族や王族の食い扶持である。

「科学の開拓」は科学者の食い扶持である。

「科学」はすべての人間の食い扶持であると信じたい。

 

 

生物の細胞膜も脂質で構成されている。水と油は混ざらない。細胞の中身は水である。しかし濃度が異なる。また細胞膜を破ると中身の濃度が変化してしまう。さらに細胞膜は常に出入りを管理している。細胞膜という「空」があるから実がある。「空」がなければ実はない。実を観ようと「空」を破ると元の実が見えなくなり、不完全な実になる。ただ「空」の中にある実は流動的である。観測された時点ではすべては「空」である。しかしその先を観ようとする操作はできる。観ようとしたら見ようとした対象を壊してしまうが、同時に見えたものを創ってしまう。創造と破壊は同時である。

 

生物の本質を水と油のみに限定すれば、

人間とエビフライは同じ位相に含むことができる。

 

生きることは創造である。ただ維持するには「創造」が必要である。(うーん。微妙。どっかおかしい。)

 

あれ~?無と有の関係は命題論理。空と実の関係は述語論理のように感じる。これは納得できる。0=φ={}。1={0}={φ}={{}}。φは空集合の「公理」。お、述語論理での本質は{}の中身つまり である。草。あほくさ。無と は同じである。(お!?これはアプリオリな総合判断では?)「公理」はよくわからない始域(「普遍性」)から創造という写像の核だねぇ。(核が置ける範囲は全体である現象世界すべて「公理」は有である。空か実かは不問である。)独創は現象の世界の任意の「公理」から「創造」の領域に写像するのではなく未知の領域に写像される。一般人は「創造」で十分やで。数学も草野球も始まりは一緒。また、その にはどんなものを入れてもいいし、入れなくてもいい。( に★、〇、◇、■、▽、△)しかしそれも空に成り得る。{}までが共通部分である。(述語論理に矛盾はない。捉えきれない、真偽のはっきりしない命題があるだけである。(はずである。))

 

現代で最も「普遍性」を表しているのは数学であるが、真の意味での普遍性ではない。(私の記述も「普遍性」である。)想像が本質である。すべての人間が本当に創造できる世界になるまで人は矛盾を抱える。そこに至るまではほとんどの人間は「創造」で良い。

 

自分自身を一言で表すということは創造という操作、つまり動詞である。動作の結果としてできるものが「創造」であり、その「創造」(「創造」∈創造)は「一言」(「一言」⊂創造)に含まれていなければならない。(「創造」∈「一言」)

最初の「空」である「私」が最初の創造という動作の「創造」物である。

論理回路はまさしく公理的集合論である。公理的集合論は命題論理と述語論理の一部を除いた論理で成り立っている。(やばい。これは言い過ぎかも。冗談半分と思ってください。)

 

自然数の構成に帰納型を使ったが、これは公理型である。これは数学におけるメタ発言である。嫌われてもしょうがない。点、直線、平面が公準(それ自体の証明はできないが、数学的認識を成立されるためになければならないと要求されている根本的な命題)と言われる理由が分かった。公理を満たすことを要請する立場である。

 

<メモ>

単純な概念は、 いつも非常にむずかしいものである。 それらは、言
葉で誘い表しえないというばかりではなく、 言葉にする必要もない大
量のことから成り立っていて、 その仲間の人間には、 直観の中に植え
付けられているのであるが、 外部の人間には、事実上 (ipso facto) まっ
たく近付けないからむずかしいのである。
そのような、 単純にして、 同時にむずかしい概念として、 西洋にお
いてとりわけ独特な内容を持つ「空間」 という語が挙げられる。 デカ
ルト以来の全数学は、 すべて、 この偉大にしてまったく宗教的な象徴
を、 理論的に解釈することに捧げられて来た。 ガリレオ以来われらの
物理学の目指すところも同じことである。 ギリシア. ローマの数学と
物理学においては、 この 「空間」 という語の意味内容は単に 「知られ
ていなかった」 のである。
ここでもまたわれわれがギリシア人の遺産から受け継いで使ってい
る、 古典的な名前が事実を覆い隠している。 (ギリシアにおいては) 幾
何学とは (空間に在る物体を) 測る術であり、 算術とは数える術であ
る。 西洋の数学は、 この二つの事柄とは何の関係もなくなって久しい
のに、 それ自身のために新しい名前を宛てなかったのである。 一その
ためには 「解析」 という言葉は、 どうしようもないほど、 不適切であ
る。 (『西洋の没落』) 

 

数学は芸術である。

 

長々と書いたが、空関数の概念では?

f:\phi\to Xとなる写像\phiがただ一つ存在する。

これは単射であるが、全単射ではない。

では空関数はどういう意味か?無意識の操作とでも名付けようか?

形式だから意味を問いてはならないか……。

 

数学は疑う学問だが、疑いすぎて「揚げ足取り」と思われると、ただでさえ世間から非常識だと思われているのに、さらに社会から孤立してしまう。数学者も人間なので、社会から完全に孤立することができない。人間が社会から完全に独立したら真の数学に到達するかもしれない。(ていうか「数学」が消える。語る必要もない。)

 

単純な概念ほど共有されていない。

いや概念そのものが社会の根幹なので、単純な概念の共有は土台がしっかりした強固な社会になる。

仕事は雇われるより作る方が難しい。それは他人からは新しい空と思われる場合もあるが、少なくとも自分自身は実、意味をもつ。

メタバース」も実を感じればメタバースであり、空だと感じれば「「」」である。

計算機は有限である。連続でも非有界でもない。状態としては現象世界の延長である。人間の創造性は無限かもしれないが、そんなこと言ったら現象世界(「メタバース」を含む)でも十分に創造性を発揮できるはずである。なにも「メタバース」に執着しなくても良くなる。「メタバース」はただの構造である。そこに意味を感じるのは個人が勝手に作ったのである。そうなると現象世界に意味を見出すことも同じである。自分で作っていない対象物に意味を作ってしまうと失ったときにリカバリーが効かない。自分で作ったものならば、作り直すことができる。(つまり私は自分で作ったものだけを信じられるのである!あぁ~やべぇやつだぁ~。)

創造という活動は対象物だけでなく、自分自身も「創造」される。

なぜ一般論で医者は高給取りになるのか。その理由のひとつは患者が「金より命」という状態になりやすく、患者の「財布の紐」が緩むからである。

 

個人が構造(社会、自然法則、etc)の中にいることを認識した上で、「選択」か「選択しない」を選択するようである。「選択」を選択した場合、次の「選択」が「自由」か「権威」のようだ。では「自由」を「選択」したとき、選択は「自由」だろうか。否、選択は「自由」ではない。

 

「選択」が空関数の終域の任意の集合である一方、「選択しない」は空関数の終域の空集合である。どちらも動作は{∅}である。

f(∅,{世界の何処か})={∅}

f(∅,∅)={∅}

つまり私の選択という記述はここで言う{}までで、形式的なので{∅}とするが、{}の間に何を代入してもいいし、しなくてもいい。意味を持たせてもいいし、しなくてもいい。意味を持たせたらそれさえ{}にしてもいいし、{}にしたらその間にまた意味を入れてもいい。いくらでも創ることができる。選択は{}の生成、現象でしかない。わかる日が来るかもしれないが知らん。人間が社会的で「共通の認識」を形式的に表現するならば、{}が下限である。その中身は個々人の創造に因る。すべての人間の認識が統合されたらあるかもしれないし、ないかもしれない。認識の統合さえできていないので(この過程には「権威」が発生する。ただの「権威」ではなく、「自由」だと思わせる「権威」が必要かもしれない。)、この問いは現段階では社会的には無意味である。個々人で勝手に創造してください。そしてそれは他人に共有されない。

 

「実数の濃度は幾らか」という問いは選択公理を含む公理的集合論を使ってさえ、独立であるのは驚きである。

この辺まで分かったら測度論なんて楽勝さ★(ガクブル……)

 

まず命題論理で対象を捕捉する。

述語論理を使って対象を空の状態にして自分で中身を作る以上。

 

「民主主義」と「自由」を守るも順序が逆である。本来「民主主義」も「自由」も勝ち取ったものである。守るということは勝ち取ったことのある人間の発言であり、そうでない人は言えないはずである。体験者には綺麗事に聞こえるのである。彼らは自覚のない悪や偽善に陥りやすい。「民主主義」も「自由」も空である。それらの概念を創造しなければならない。「独裁」も本来は空である。創造され続けるからこそある。蓋を開けてみたら中身は「民主的」である可能性(一般的には一部分であるが)だってある。また「民主主義」も「自由」も「独裁」もすべて中身を書き換えることができる。中身が知らないうちに入れ替わってないか注視する必要がある。

 

選択は創造と破壊である。