良い精神論と悪い精神論(個人的主観)

研究とは学問における新しい価値創造である。

そしてそれは人間の真理を得ようとする精神的活動である。

学問は基本的に演繹的な活動である。

実験という帰納的活動は最終的に演繹に利用する材料である。

学問は人間の好奇心を元に活動する。そして学問は研究者の主体性によってなされる。

これが良い精神論である。

一方、近代の学校教育は悪い精神論である。

感情的に激怒する教師や根拠のない精神論、規定のない連帯責任、人格否定は子供の創造的活動を抑止する。(むしろ子供を動物だと無矛盾に思っている。子供が動物か人間かは議論の余地がある。)

抑止された児童は創造的な活動をできないので、大人になると再生産される。

負の連鎖である。

社会は創造的で主体的な人物を求めている。これでは本末転倒である。

そういう人間になるように育てたにも関わらず、この掌返しである。悪徳である。

創造的で自由な社会には暗黙の了解や常識などという固定観念はない。

全ては空だという前提で価値を各個人が創造できるようになれば良い。

そうなればその個人は真の自由と責任を得る。むしろ創造できないということは自由も責任もない。

 

個人が考える”客観”は客観ではなく「客観」という概念である。そしてそれは「主観」の集合である。「客観」は存在するが、「客観は存在しない」という命題は証明できない。

評論文で用いられる「一般論」というものも「主観」の集合であり、その文の展開は「客観」の拡張である。これも新しい価値を創造している。

世に蔓延るあらゆる既成概念は元を辿れば全て個人の観念である。学問はその中でも反証に耐え抜いた固定観念である。しかし、それが未来永劫君臨し続けるとは限らない。常に疑うことが結果として学問に対する正しい姿勢となる。

 

人は産まれたときには既に過去の人間が創り上げてきたあらゆる「価値」に囲まれている。「常識」というのはまさに共有されて来た「価値」であり、教育で「常識」の「価値」を学ぶ。しかし価値そのものは自分で創らない限り対象の本質はわからない。「常識」の価値、意味を理解するためにも、「常識」を構造で把握する必要がある。本来、先人から「常識」を引き継ぐ場合、形だけでなく意味を継承しなければならないが、どうやら後継者に伝わっていないかあるいは先人に伝える能力が欠如しているようである。それだけ意味を伝えることが難しいということがこれまでの人類の悩みであったであろう。人間は有限であるので、その情緒的な意味を伝えることは無限を有限にインプットするようなものである。当然処理は一向に終わらず、処理落ちするか、エラーを吐き出す。処理落ちする場合は学問に向かうであろう。エラーを吐く場合は、その局所解あるいは丸め誤差を許して生きるか、感情的に許せなくなり、破壊活動に向かうかどちらかである。

 

価値観は遺伝しない。よって「暗黙の了解」は明確に意味を後の世代に伝えなければ継承されない。「阿吽の呼吸」や「以心伝心」などの慣用句を知ると一見、数百年、数千年価値観を”意図せず”共有しているように思うが、これは大きな間違いである。「最近の若者は~」という若者論が出現する原因は価値観は遺伝しないという前提を忘れている。それを伝えることが本質的な「教育」であるが、グローバル化は外来の価値観が入ってくることによってローカルの価値観に影響を及ぼすのであろう。であるならば、グローバルの価値観を前提に「教育」を施すことが今後の方針になるであろう。

 

欲深さも個性や才能、能力である。

欲を出すべき領域と欲を出すべきではない領域がある。

時と場に合った使い分けをするには訓練が必要である。

 

名著を読むのに苦労するのは、その時代の一般的な価値観を感じ取れないからであろう。現代語訳してほしい。あるいは自動的にその時代の価値観に合わせられたら良い。

 

子供は親の背中を見て育つ。ということわざがあるように環境は子供に影響する。