不可知論探究 ~無の種類~

思想は過程の問題。

人類の全ての目的は幸福を追求するためである。

思想は手段でしかない。

我々は手段であったことを忘れてしまった。

真の解脱は死によって達成される。

理性には限界があり、その次に感情の限界にぶつかる。

存命の間で得る大小さまざまな悟りは不完全な解脱である。(そもそも解脱はイデアである)

このうち、最大の悟りへの過程は無知の知を悟りの出発点として、真理追求への終わりのない探求を悟り、そしてその境地へは到達不可能であることを悟る。(認識の限界、技術の限界、数学の限界、有史以来の心の探究や今日の科学技術を以てしても判断できない、かつ到達できない領域を人類は発見した。対象がはっきりしない世界)

ここで最初の知を得た瞬間を思い出す(逆観)。それは初めて、個人が発見した対象である。(知もイデアである)(全ての対象もイデアである。なぜなら本質を理解せずにラベリングしたから)

それは我々が最初に自我を持った瞬間である。我々はそれ以前のことを思い出すことができない。

恐らく我々は自我の形成には対象の発見が先である。(肉体があってからの精神だから→要検証)

我々は無知という対象を知を発見した上で発見した。

その後、更に「無〇と〇(〇は任意の記号或いは空集合)」と抽象化することで、無を発見した。

しかし、(カントの物自体を補助に)あらゆる対象を理解できないということは、その前提が崩れた以上、無を理解することも生きとし生ける者には未来永劫不可能である。

実は人は何も発見していないのである。

物心着く以前の状態は、肉体が有っても、精神が無いという「特殊な無」を体感する時期が我々にはあった。

肉体も精神も無い「無」もあったであろう。

しかし、我々が想像できる無は「生前の無」のみである。(無因論回避のため)

無にも種類があるようだ。

それぞれの状態を体感できるのならば、異なる無を創造するだろう。

無もイデアであったのだ。

私はここで強気に出る。

「生前の無」を公理(恐らく人類が共有できる概念の限界)と置くことで、あらゆる対象(神も含む)は我々の創造物となる。そうすることで有限のようで無限の対象という真理が埋蔵された無限の開拓領域を得る。(ただし万物ではなく局所的な真理)

これまでの「生前の無」の公理化の過程は、対象の発見、発露の過程の分析によって起源を知る。そしてそれを基に応用するである。

これは科学の研究活動と同等である。

この世は無限であり、自由である。

私は、「生前の無」の公理化が唯一世界中の文化の違いによる全ての対立を乗り越え、次の時代へ進む原点だと考える。

神と違い創造の自由を選択できるのに対して、無のみが論理的帰結で全ての人類が創造せざるを得ない対象である。(空集合∅が対象のように)

こうすることで人類が体感するすべては創造物であり、自由に建てたり、崩したり(脱構築の達成)することが可能である。常識という呪縛からも解放されるだけでなく、非常識を心置きなく楽しめる。(イデアは創造物である)(ポスト構造主義の完成)

こうすることで全ての発見も「発明」に変化する。

更に現在の不完全な自由から完全な自由に到達する。

野心的な真理探究から開放的な真理探究に変化する。つまり真理探究という苦しさを含む行から、快楽追求の行のみが残る。幸福追求の点から快楽的な行は生きている限り終わらない。

不可知論は理性と感情の折り合いである。存命間において、最大の苦悩からの解放で、解脱に最も近い思想である。人類が獲得できる苦悩を解放する悟りとして最高にして限界である。

悟りは幸福追求の手段である。

仮に更に驚くべき人類の世界観を変える「発明」があっても、揺るがない堅牢さがこの公理にはある。なぜならその「発明」は対象であるから。

仏教のイデア的な輪廻解脱は不可能である。

地球外生命体発見までは人間原理で良い。

 

人間がA⇔Bと判断しても、動物はA⇒Bを判断しても、B⇒Aと判断しない。対象を認識するには対応関係が必要だが、これは人間の脳のバグと考える。
「1+2=3」の左辺等辺は等号であるが、動物には理解できない。

1+1=2となるのは1がそれぞれ「独立」した対象であることが前提である。

泥団子のように1+1=1となることもできる。

数学的な対象は「独立」であることが前提である。

しかし、今まで述べてきたように対象が「独立」であることは保証されていない。

我々が恣意的に「独立」と仮定した。

「独立」した対象も創造物である。