エウレカ!

わかったぞぉ

数学の構造は命題論理と述語論理の塊であって、述語論理に重きを置いている。

しかし、対象を数学そのものにするとメタ数学になってしまう。(公理型のように)

それでは哲学になってしまって、対象が数学的な対象ではなくなってしまう。

真偽がはっきりしている命題に述語論理を考えてしまうと、それは新しい問になってしまい、数学的な構築にならなくなってしまう。

述語論理の終着点は空である。

また自然数の性質(1,2,3,4,5,...)を形式的な推論規則で記述するために数学的帰納法を”公理として仮定しているのである。”

つまり論理は後付けなのである。自明(のよう)な自然数を数学的な対象として述語論理を付加したら、空が現れるのは当然である(と思う)。それでは対象さえなくなってしまうので考えることができなくなってしまう。

なのでその場では真偽がはっきりしている命題(あるいは定理)は共有された真として数学を構築するべきである。

すべき構文としたのは情緒である。

なぜ情緒が発生するのか。それは人間が社会的な動物だからである。

なぜ構築が発生するのか。それも人間が社会的な動物だからである。

述語論理が代入した「空」も記号でしかない。「空」には意味がある。空には意味そのものもない。対象として捉えることすらできない。

なので「空」の代わりに入れられるものはいくらでもある。ただし、それは個人が「創造」したものである。

もし述語論理で「空」に出会ったということはまだ自力で「創造」をしていない証拠である。

なので創造は論理と情緒の止揚である。「創造」に「公理」は含まれる。

「公理」は論理と情緒の止揚である「創造物」である。

なぜ「創造物」がいるのか。それは人間が社会的な動物だからである。

本当に完全に独立した人間ならば、これら全てはいらない。

もし仮に社会性があり、かつ個体ごとの意識が完全に共有されていない宇宙人がいるならば、これらは発生するだろう。

人間(個人)が「存在」する(動詞)には「社会」から「創造」を求められている。

「幸せ」という概念も自力で創造する(動詞)「創造物」である。

全ての動詞は創造的である。五感「見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ」など一見受動的な動詞や使役的な動詞も能動的である。受動的、使役的な動詞は能動的な動詞以上に存在しないのである!

釈迦は物語の終わりではなく、はじまりである。

 

 

 

 

数学的ドッペルゲンガーは自分自身と完全に等しい自分が自分と完全に重なる動き、位置にいる。つまり本当の意味で完全に置換されている自分がいる。(外部なのか内部なのかわからない。)

そして私は置換された自分(無限個同時に生成可能)の中から”無作為に”(並べていないから)一つを選択して、それを「私」としているのである。「私」以外はどこかに消えるのである。うぎゃぁああ~。

 

人間は間違える。ある程度までは間違えることを許される社会が必要である。その匙加減は社会が決める。

 

私は自分が「創造」した「構造」を「信頼」している。

数学においては数学の定理は全て説明可能である。説明できないのは理解できていないか、行間を埋める能力に欠ける。

日常会話では説明できないことがある。なぜなら「常識」という実があるからである。それを疑い始め、述語論理を付加すると「常識」は空になる。

分解、理解、再構築である。

 

 

 

人々やさらに自分さえ何を求めているかわかりづらい世界では創造する(動詞)ことは他人にとって良いだけでなく、自分を形創ることにおいても重要になるであろう。

 

※以下の記述は特にデタラメである。

追記:例えば実線形空間を抽象的に記述すると(R,+,)となるが、Rを公理的集合(この前提は大事。素朴な意味ではない)とすると、集合をメタ数学的に捉えると()の中の要素は全て構造になる。それらすべてが構造ならば構築(構成)可能ということでもある。つまりこれらは数学における創造の結果(記述)である。すべてを動詞と捉えることもできる。ここで危ういのは数学的対象まで消えてしまう点である。なのでこの立場は数学者に嫌われる。では()は何なのか?とりあえず私は人間の認識領域と仮定する。なんだか連続体仮説みたいな感じがするが、検証してない。(多分間違っている。)

人間の能力は有限である。使える時間も有限である。人の差は微々たるものである。自分よりも認識能力の高い人間がいるように感じる理由は有限の人間がその対象を把握できていない証拠である。拡大された人間像である。人物の神格化もこのように発生する。

現実世界における客観的な真理は未だかつてない(将来到達するかもしれない)。共有できる現象世界における客観的な「真理」は存在する。

しかし、真理は個々人に宿るものである。個々人はその真理を元に創造して(動詞)現象世界に「創造」を具象化させるのである。

 

他人の記述を読み取るのは難しい。いや行間を完全に埋めて記述することもすべてを記述することもできない。恐らくここの記述も読者に伝わらないであろう。(伝わるように記述しても)

 

人生は短いとか長いとか言うが、どちらも形容詞なので、どちらも曖昧である。実体験としては今ある現在だけである。思い起こすときも現時点から能動的に想起するため有限の思考能力では記憶の断片しか見えない。なので短いも長いもなく、「現在」しかないのである。「過去」も「未来」も「現在」の自分が創造した(過去動詞)「創造」(事柄)である。

人間は任意の観測可能な「現象」からある「現象」を「私」として「「私」」を創造する。「「私」」は私である。排中律である。

 

「価値」という概念も厄介である。他人に「価値」があると思わせる能力が必要である。「価値」も「創造」の部分空間である。

「想像」は集合。「創造」は集合に構造が加わった空間。(創造する)は集合を使った構造の構築。

 

すべてに空があるならば、すべての空に「空」あるいはいかなるものも代入できる。代入した概念が「心」ならば汎神論に行きつく。ただし、対象は何も反応を示してくれないので、「人間」のような「心」を持つことを検証できない。人間の「心」という概念も対象としてすべてを把握できているのかできていないのかわからない。というか把握できないように常に「創造」している。普遍から常に意識的、無意識的に選択している。人間には「心」があるという”絶対的な仮定”(公理)によって人間社会は成立している。ない!としても良いが、問題は多くの物を構築できなくなる。現代社会は人々の趣味である。「心」があり、さらに人間社会在っての構築である。社会がなければ人間的推論思考はいらない。理性があっての構築である。まとめると、「心」を公理として自分以外の似た現象を「他人」として「自分」を含める社会の中で理性を使って「社会」を構築する。密教の「真言」も真理ではない。「真理」である。大日如来が”本当に”普遍ならば、真理を理解しているかもしれないが、語ったのは「真理」である。残念ながら人が記述した大日如来は「大日如来」なので、普遍ではない。

 

信徒になることは「空」であることに気づき、「空」を置換する能動的な活動を「悟りの境地」というのかもしれない。「護摩」も過程に過ぎない。

 

しかし悲しいことに「創造」も「他人」に理解されなければ「創造」として認められない。生きるために創造するが、「創造」と認められる領域は限られている。つまり間に「理解される創造」は「個人の創造」の部分空間である。写像の終域は選択しなければならない。「善」も個人の「創造」である。

 

人間は生物学的には哺乳類の仲間であるが、「社会的な動物」という位相空間では、人間は猿よりアリに近い生き物である。自律したキリギリスに成りたいものである。

1+1=2を理解する子供もその時点では高い「創造」を伴う。しかし、私が知りたいのは「持続的な創造」である。それを知るには経験はその全体の部分空間であろう。

 

21世紀初頭は十分に査読、精査されていない情報が溢れ返った時代である。(情報を得られないよりはマシ。)しかし、そのような環境下でも過去の格言以上の「凝縮された情報」が生まれる場合がある。専門書を読むことを勧める(難解だが……)。

「読解力」なんて概念も、ある人間の集まりである「社会」における「暗黙の了解」である。不完全な論理によって運用されている。「読解力」がないということは、その「社会」の構成員としての資質が十分ではない証拠である。(と同時にその人間は「社会」に帰属していないと感じている。(すべての人は「社会」に「帰属」していると思っているが、社会には帰属していない。)子供の「読解力」が落ちているのは、「社会」から孤立していることでもある。)ただし現実の「社会」の領域はこれよりも広く不足していても人は生存している。これは情緒も含めた結果である。世俗的な「読解力」は長い歴史の中で「構築」された「創造」である。識字率は高いが「読解力」がない人間が増えるということは、その「社会」が「空」である証拠である。人は「社会」から消えた。しかし、人は「一人では生きていけない」ので表面化されない「新しい社会」を何処かで「構築」している。「機密情報」の空間の中なので基本的には「観測」できない。だからGAFAビッグデータを集積しているのだろうか。「読解力」も絶対的な概念から、「道具」の一つになったのだろうか。

 

創造する(動詞)とは情緒と論理の止揚である。

「創造」とは情緒と論理の先にある端緒である。

 

「選択しない」という「選択」はあるが、「選択しない」という選択はない。仏の世界が数千年経っても実現しないのは自己言及のパラドックスによる。「選択」の中から「個人」にとって「正しい」と思う選択をするだけである。

 

 

「新卒」という概念が残っている理由は「企業」が自分たちには十分な「価値」がないと「無意識」に認めているからである。「価値」があると思い、かつ「価値」を作る行動をしているならば優秀な学生を探すはずである。(「価値」がないと思われたら、「新卒」は逃げていくが……)しかし、「企業」もあらゆる「概念」と同じように有限なのに無限を醸し出すので「新卒」という概念はなくならない。「新卒」も「企業」が有限だと気づいた上で、企業のパフォーマンスに躍らされずに、如何なる場合に於いても創造するという行動をする。「社会のレール」も中間層が勝手に「創造」したものである。「企業」も元は「創造」である。いつの間にか最初から其処にあったと思い込んでいるのは間違いである。「企業」は変化することを拒んでいるかもしれない。偉い人はいない。「偉い人」はいる。なのですべての人を「偉い人」と言うことは可能である。

「終身雇用」の時代は終わったので、自ら創造する力が必要だが、(「良い創造」を)創造するには「本質」が見えていないとできない。「本質」を得るために分解していくのだが、「有限の立場」がたどり着く先は真理ではなく「限りなく空」か「空」である。「空」の状態において「真理」を創造し、「真理」を根拠に「創造」を創造する。ただ「創造」した物をまた分解すると「空」になる。「分解しない」という「選択」はある。世は「不条理」だが、同時に「自由」でもある。

 

人間は概念を文字や音声、絵画、映像などを使って「概念」に具象化でき、個体同士で「概念」を共有できる。これが人間以外の地球上の生物にない人間の強みである。しかしこれは矛盾を引き起こす。相対主義の主張の根幹が絶対主義になってしまうパラドックスも創造する(動詞)ことで発生する。なので矛盾する要素という「選択肢」から選択する必要がある。それが新しい「創造」に繋がる。「すべての人間」を対象とした時、「すべての人間」に優しくすることは可能である。ただし、観測者はその集合に含まれない場合に限る。(聖人、人格者)

 

「象徴」は「社会」を維持する上で重要である。人間の何処かに「帰属」したいという欲求の中で最も抽象的な「概念」である。ただ個々人がより自律すれば、「象徴」の重要性は下がる。「大人」は「自律」、「自立」という状態ではあるが、自律、自立はしていない。「社会的な人間」である以上それは不可能である。「社会的な人間」でないなら一応可能ではある。

 

「他人」も「創造」の部分空間である。「他人」も人が作り出した「概念」である。人間は物心ついた時には目に見えるほとんどの現象に「意味」を「創造」し終えている。「大人」は「意味」がなかった期間を忘れてからかなり長い時間が経つ。「意味」がなかった時を思い出すことが「破壊」で「創造」に繋がる。(ただし人は「現在」からの視点しかないので、思い出したものは「創造」である。「破壊」も「創造」の部分空間である。)

「他人」という「概念」を最初に「発明」した人間は「天才」だが、「概念」を疑わずに利用した人間は「他人」に「利用」される。