私と「私」と「「私」」とは(蓋然的)

※以下の文章は釈迦に説法である。

また心理的に傷ついても責任は負いかねます。

 

 

 

私とは「「私」」が観測した物質である。

「私」とは私を構成する物質が構築と崩壊を繰り返す現象である。

「「私」」とは「私」が創造と破壊を繰り返す概念である。

 

 

 

循環論法

一番と二番の文はアプリオリな分析判断である。

三番目の文はアプリオリな総合判断である。

この問いそのものには意味がない。

ここに出てきた創造という概念が重要である。

 

 

何かを作る範囲の中で独創は一番難しい。

独創の過程は孤独だが、孤高に成り得る。

そして独創なしで文明は進歩しない。

ただし全ての人間が独創をする必要はない。(独創はある人間の必要条件)

全ての人間は独創を含まない創造の領域までで十分である。(創造は任意の人間の十分条件)(創造の範囲は広い。ここで言う独創を含まない創造とは、狭義の創造である。)

包含関係(必要十分条件など)が良くわからなくなるのは、対象物を明確に把握していない、あるいはできないからである。例えば「リンゴならば果物である。」という命題である。この場合一般的には果物はリンゴの必要条件で、リンゴは果物の十分条件だが、絵に描いたリンゴは果物だろうか。ということで果物の定義を見てみよう。

果物 - Wikipedia

果物は食用になる果実とある。つまり絵にかいたリンゴはリンゴの集合に含まれるが、果物の集合に含まれないのである。なぜこのような現象が起こるのか。それは果物という概念がリンゴを囲えなかった、あるいはリンゴという概念が拡張したのである。(今回は後者である)

より詳しくは部分集合を調べてください。

部分集合 - Wikipedia

また、論理包含と部分集合は異なる。この二者は直感的に似ているため混乱の元になる。命題論理と述語論理の違いはここで現れる。

論理包含 - Wikipedia

上の場合は、一部の人間が「人間」という概念を拡張するのである。それが独創である。ここで気になる点が、「有限の立場」である人間が、普遍的な対象物を概念で囲い込めるのかである。上は人間を対象にしている。矛盾に気づくだろうか。人間を有限と仮定したのに、人間を対象として観察したら無限に感じるのである。(観察や証明が有限な手続きだからかもしれない。)矛盾である。仮定が間違っているのか結論が間違っているのかわからない。あるいはどちらもか。(ちなみにこれは自己言及のパラドックスになる(はずである。)。私が観測する私が客観的な対象ではないからかもしれない。あるいは創造した自分という対象が自分の外に出るから感じるのかもしれない。よく自分を客観視するというが、対象が自分なのか。認識しているのが自分なのかわからなくなる。ドッペルゲンガーである。認識している自分が対象の自分に含まれないのである。一人作れるなら無限に作れそうである。さらにその一人一人が構成する要素が無限なのである。数学は公理を設けることでパラドックスを無視した。日常言語が曖昧なのも原因である。仮定も結論も曖昧だからかもしれない。しかし他人にはどちらかさえわからない。記述は有限なので、自分を包含する概念で無矛盾に論証すれば他人は真であると感じる。たとえ自分自身が嘘だと気づいていながらでも……。無限の概念があると過ちを犯さないが、解が出ない。公理が必要である。吹っ切れる瞬間である。この気持ち悪い現象が起きるのは選択公理のせいでは?)すべての人間にとって独創と感じるものがあるというのは人間という集合が有限だからである。有限なのに常に拡張しており、普遍的な概念(「有限の立場」が作った)でさえ囲えない場合が出てくるのである。しかし、無限だからと言って有界でないとは限らない。さらに有界だとしても、開なのか閉なのか(あるいは開かつ閉)わからない。(仮想世界は有界だぁ!)創造という概念は普遍的である。しかし創造という言葉には中身がない。創造は開かつ閉集合(空間でさえない。つまり構造がない。逆に言えば構造を作るだけで十分である。)である。真の意味での創造(独創)は差異を作り、存在を作り、それを元に構造を作り、空間に仕上げる一連の活動である。現代社会は差異が多すぎて差異を作りにくいのかもしれないが。(仕事を創る難しさ)空間がブラックボックスになったら存在だが……。(このような現象を体感するには無限級数が発散したり、収束したりする現象を目の当たりにしたら理解できるであろう。それだけ深いことを数学で学べる。概念にも抽象度がある。)

「普遍性」の中で「有限な立場」である人間が「創造的」な活動をするのはそれだけですごいのである。(砂山から宇宙船まで)しかし、つい百年前まで創造に必要な論理という道具が未熟だったのは悔やまれる。(構造を作る道具として不完全であった。)新しい論理の発明により今の情報社会はあるが、論理の更なる開発が進まなければそれも頭打ちである。更なる新しい論理の発明には数学や自然科学における「発見」が重要になってくるであろう。(必ずしも道具ではない論理もある。有限集合の直観主義論理など。(いやこれも使う人が現れたら道具なのでなんとも言えない。少なくとも現段階ではまだ道具として使えるほど成熟していないはず。うーん……。情報科学なら使えるかなぁ……。少なくとも数学で使うことはできない気がする……。追記:あーこれがカーリー=ハワード同型かなぁ~?情報科学の論理やなぁ……。)道具の集合に論理が含まれない場合がある。道具の定義が必要である。論理を道具として扱うか研究の対象とするかで概念の領域が変化する。これは数学と物理学の間にも見られる。情報科学圏論の扱いとかも。恐らくそこらじゅうで起きている。)

道具 - Wikipedia

科学において現実の「普遍性」を記述するには検証より反証が大事になるかもしれない。(反例と反証は違うみたい……。よくわからん。)

 

追記:ガリレオの名言である「自然という書物は数学の言語で書かれている」には注釈が欲しい。ここで言う自然とは人間が対象として認識する自然であると……。

 

余談:スーパータスクを知る。

スーパータスク - Wikipedia

 

さらに余談:人間はついついフレームで考えてしまう。(あるいは実際にフレームに入っているからか。現実の宇宙は開なのか閉なのかわからない。閉なのは今ある宇宙だけである。つまりコンパクトである。わからないので、とりあえず開かつ閉にしておくのである。現実の宇宙は有界であるかもしれないが。)逆に言えばほとんどの概念はどこかで収束するのである。市場経済に限界を感じたりするのもこの「市場経済」というフレームで考えるから限界を感じるのである。(現実世界では社会主義が先に収束してしまったが……)人間は矛盾を抱えている(私が実在するのも怪しい)ので資本主義が不安定なのは自明である。もちろん「市場経済」を前提に良い結論に至るかは「結論」に達するまで(そもそも達しないのでは。まさに形而上)わからない。

選択公理は大事だなぁ。当たり前。ただこれは「普遍性」から部分写像された「創造」という集合(の部分集合である「数学」という集合)の部分集合である「道具」という集合の要素である。(部分写像のところで選択使ってるやん!って思うが、敢えて無意識の選択とする。公理化した方は意識的な選択である。苦し紛れの分離……。ここで初めて自由意志を手に入れる。と同時に構造の中にいることに気づく。構造の外に行くには手に入れた自由意志を手放す必要があるだろうか。それとも自由意志に基づく構造を新しく作るのか。この先は情緒次第である。どちらを選んでも創造である。ただし前者は創造を共有できるかできないか後者以上にわからない。)

 

さらにさらに余談:禅問答の問題は論理が弱い点である(古典論理以下)。情緒的な「悟り」を開くには一対一の対話が必要である。これでは非効率なので、整備された論理が必要である。本来大事なのはその先の「創造」である。

神がいるかいないかも個々人が自由意志を前提に「創造」したなら個々人の観念の世界の中に実在する。逆に権威や人から教わって知った「神」は客観的にも個人の観念の中にも実在しない。

 

必要十分条件を考察した。現実にある物体が、人間の認識の中で対象として現れるということは、その物体が必要だと個人が選択したのである。物体がまだ認識されていない状態から認識の中に入るということは人は「必要」という操作をしたのである。またその物体も「十分」という操作をして個人の認識に入ってくるのである。(現実世界が認識の外を含めている領域と考えた時点で「創造」である。しかし検証できない。反証できるか今考えている。たぶんできないので、これは科学ではない。)また、この構造は日常的に使っていて、そして複雑な階層構造を成している。階層をはっきりさせるには主語が大事である。主語が曖昧だと客観的に判断しづらいからである。(主語が曖昧でも個々人の能力で補うことができるが、能力に差があった場合、発言者の観念の世界を会話に参加している人同士で共有できない。)

 

対応確認:このブログで使っている概念と仏教の概念の対応が見えた。

・「普遍性」は無

・公理は有

・論理は空

・情緒は実

このことからもう一度まとめると

「創造」とは創造でできた「公理」を元に論理と情緒の止揚である。

創造とは論理と情緒の止揚である。

(あれ?最初の創造は情緒では?

情緒を有界な非可算無限集合で論理はその部分集合としてみよう。

情緒の誕生と同時に論理が誕生するのか。或いは論理は情緒の後かわからない。

いや創造は情緒から論理への全射な部分写像であり、

また逆写像である「創造」は論理から情緒への単準同型写像に見えてきた。

写像がなければ創造はない。

あれぇ?創造が写像に見えて来たぞぉ~?つまり選択して操作する。

論理も「創造」された要素に見えてきた。

書いててなんかおかしいなぁ……。どっか矛盾している。クソ。

曖昧な「好奇心」という言葉で覆えばコンパクトやなぁ~。これも選択である。証明を簡略化して先に進める。これは選択した上での操作である。つまり選択無くして操作はない。後で致命的な問題が発生するかもしれないが……。しかし操作無くしてどのような現象も発生しないので、選択をする。選択自体も「何かから」の操作のような気もするが……。もう良しとしよう……。「表裏一体」で覆えばまたコンパクト~。etc...

そして「創造」は空になる。つまり論理の部分集合になる。コンパクトである。

本質とは実が含まれているように感じられる可能性がある、あるいは本当に実のある概念である。

「本質」とは実が含まれていると感じる概念である。

「創造」が「本質」と対応する。

「本質」も空である。これが「実存」と対応する。

数学における「創造」は「定理」である。

しかし、数学者が創造するときは「定理」ではなく、実のある定理なのである。

実、は意味と対応する。

意味は共有されない。共有されるのは「意味」である。(だから「意味」の意味は記述できない。つまりラッセルのパラドックスである。)

情緒は共有されない。共有されるのは「情緒」である。

私は共有されない。共有されるのは「私」である。

では「私」が私を感じているだろうか。どうもそうではなさそうである。

私、「私」、「「私」」といる。実は共有されるのは「「私」」である。

「われ思う故に、我あり」は「私」に対応する。

「私」は私を把握していない。「私」は空であるが、私は空か実かもわからない。実か有かもわからない。とりあえず実にするのである。生きている間は。

あれ?これいくらでも階層作れんじゃね?言語があかんのかなぁ?やっぱり生きているということは有を公理にするんかなぁ。実は有あっての概念かもなぁ……。逆かもしれないなぁ……。わかんねぇだぁ~!少なくともこの辺はあと数百年は深堀する必要はないなぁ。むしろ論理の整備を優先したほうが良い。それからまた考えれば良い。

これはクラス(類)の概念だろうか?(「」の付け方がところどころいい加減である。なぜなら記述に矛盾がないか識別できていないからである。)

 

なぜ言い訳がダメか。なぜなら全ての人が言い訳できるからである。「言い訳」が語っている内容は語り得ぬ世界のことである。結局人間の脳なんてものは食い扶持を得るために自然の中から産まれたとしか言えない。これはコンパクトである。コンパクトは直観的には境界を持つことである。つまり実と「空」の和集合である「有」である。人間(個人からすべての人間まで数は様々。ただし有限の自然数である。)の創造が含まれる。仏教は創造までは否定していないはずである。(検証していない)

「神」という概念も聖職者、貴族や王族の食い扶持である。

「科学の開拓」は科学者の食い扶持である。

「科学」はすべての人間の食い扶持であると信じたい。

 

 

生物の細胞膜も脂質で構成されている。水と油は混ざらない。細胞の中身は水である。しかし濃度が異なる。また細胞膜を破ると中身の濃度が変化してしまう。さらに細胞膜は常に出入りを管理している。細胞膜という「空」があるから実がある。「空」がなければ実はない。実を観ようと「空」を破ると元の実が見えなくなり、不完全な実になる。ただ「空」の中にある実は流動的である。観測された時点ではすべては「空」である。しかしその先を観ようとする操作はできる。観ようとしたら見ようとした対象を壊してしまうが、同時に見えたものを創ってしまう。創造と破壊は同時である。

 

生物の本質を水と油のみに限定すれば、

人間とエビフライは同じ位相に含むことができる。

 

生きることは創造である。ただ維持するには「創造」が必要である。(うーん。微妙。どっかおかしい。)

 

あれ~?無と有の関係は命題論理。空と実の関係は述語論理のように感じる。これは納得できる。0=φ={}。1={0}={φ}={{}}。φは空集合の「公理」。お、述語論理での本質は{}の中身つまり である。草。あほくさ。無と は同じである。(お!?これはアプリオリな総合判断では?)「公理」はよくわからない始域(「普遍性」)から創造という写像の核だねぇ。(核が置ける範囲は全体である現象世界すべて「公理」は有である。空か実かは不問である。)独創は現象の世界の任意の「公理」から「創造」の領域に写像するのではなく未知の領域に写像される。一般人は「創造」で十分やで。数学も草野球も始まりは一緒。また、その にはどんなものを入れてもいいし、入れなくてもいい。( に★、〇、◇、■、▽、△)しかしそれも空に成り得る。{}までが共通部分である。(述語論理に矛盾はない。捉えきれない、真偽のはっきりしない命題があるだけである。(はずである。))

 

現代で最も「普遍性」を表しているのは数学であるが、真の意味での普遍性ではない。(私の記述も「普遍性」である。)想像が本質である。すべての人間が本当に創造できる世界になるまで人は矛盾を抱える。そこに至るまではほとんどの人間は「創造」で良い。

 

自分自身を一言で表すということは創造という操作、つまり動詞である。動作の結果としてできるものが「創造」であり、その「創造」(「創造」∈創造)は「一言」(「一言」⊂創造)に含まれていなければならない。(「創造」∈「一言」)

最初の「空」である「私」が最初の創造という動作の「創造」物である。

論理回路はまさしく公理的集合論である。公理的集合論は命題論理と述語論理の一部を除いた論理で成り立っている。(やばい。これは言い過ぎかも。冗談半分と思ってください。)

 

自然数の構成に帰納型を使ったが、これは公理型である。これは数学におけるメタ発言である。嫌われてもしょうがない。点、直線、平面が公準(それ自体の証明はできないが、数学的認識を成立されるためになければならないと要求されている根本的な命題)と言われる理由が分かった。公理を満たすことを要請する立場である。

 

<メモ>

単純な概念は、 いつも非常にむずかしいものである。 それらは、言
葉で誘い表しえないというばかりではなく、 言葉にする必要もない大
量のことから成り立っていて、 その仲間の人間には、 直観の中に植え
付けられているのであるが、 外部の人間には、事実上 (ipso facto) まっ
たく近付けないからむずかしいのである。
そのような、 単純にして、 同時にむずかしい概念として、 西洋にお
いてとりわけ独特な内容を持つ「空間」 という語が挙げられる。 デカ
ルト以来の全数学は、 すべて、 この偉大にしてまったく宗教的な象徴
を、 理論的に解釈することに捧げられて来た。 ガリレオ以来われらの
物理学の目指すところも同じことである。 ギリシア. ローマの数学と
物理学においては、 この 「空間」 という語の意味内容は単に 「知られ
ていなかった」 のである。
ここでもまたわれわれがギリシア人の遺産から受け継いで使ってい
る、 古典的な名前が事実を覆い隠している。 (ギリシアにおいては) 幾
何学とは (空間に在る物体を) 測る術であり、 算術とは数える術であ
る。 西洋の数学は、 この二つの事柄とは何の関係もなくなって久しい
のに、 それ自身のために新しい名前を宛てなかったのである。 一その
ためには 「解析」 という言葉は、 どうしようもないほど、 不適切であ
る。 (『西洋の没落』) 

 

数学は芸術である。

 

長々と書いたが、空関数の概念では?

f:\phi\to Xとなる写像\phiがただ一つ存在する。

これは単射であるが、全単射ではない。

では空関数はどういう意味か?無意識の操作とでも名付けようか?

形式だから意味を問いてはならないか……。

 

数学は疑う学問だが、疑いすぎて「揚げ足取り」と思われると、ただでさえ世間から非常識だと思われているのに、さらに社会から孤立してしまう。数学者も人間なので、社会から完全に孤立することができない。人間が社会から完全に独立したら真の数学に到達するかもしれない。(ていうか「数学」が消える。語る必要もない。)

 

単純な概念ほど共有されていない。

いや概念そのものが社会の根幹なので、単純な概念の共有は土台がしっかりした強固な社会になる。

仕事は雇われるより作る方が難しい。それは他人からは新しい空と思われる場合もあるが、少なくとも自分自身は実、意味をもつ。

メタバース」も実を感じればメタバースであり、空だと感じれば「「」」である。

計算機は有限である。連続でも非有界でもない。状態としては現象世界の延長である。人間の創造性は無限かもしれないが、そんなこと言ったら現象世界(「メタバース」を含む)でも十分に創造性を発揮できるはずである。なにも「メタバース」に執着しなくても良くなる。「メタバース」はただの構造である。そこに意味を感じるのは個人が勝手に作ったのである。そうなると現象世界に意味を見出すことも同じである。自分で作っていない対象物に意味を作ってしまうと失ったときにリカバリーが効かない。自分で作ったものならば、作り直すことができる。(つまり私は自分で作ったものだけを信じられるのである!あぁ~やべぇやつだぁ~。)

創造という活動は対象物だけでなく、自分自身も「創造」される。

なぜ一般論で医者は高給取りになるのか。その理由のひとつは患者が「金より命」という状態になりやすく、患者の「財布の紐」が緩むからである。

 

個人が構造(社会、自然法則、etc)の中にいることを認識した上で、「選択」か「選択しない」を選択するようである。「選択」を選択した場合、次の「選択」が「自由」か「権威」のようだ。では「自由」を「選択」したとき、選択は「自由」だろうか。否、選択は「自由」ではない。

 

「選択」が空関数の終域の任意の集合である一方、「選択しない」は空関数の終域の空集合である。どちらも動作は{∅}である。

f(∅,{世界の何処か})={∅}

f(∅,∅)={∅}

つまり私の選択という記述はここで言う{}までで、形式的なので{∅}とするが、{}の間に何を代入してもいいし、しなくてもいい。意味を持たせてもいいし、しなくてもいい。意味を持たせたらそれさえ{}にしてもいいし、{}にしたらその間にまた意味を入れてもいい。いくらでも創ることができる。選択は{}の生成、現象でしかない。わかる日が来るかもしれないが知らん。人間が社会的で「共通の認識」を形式的に表現するならば、{}が下限である。その中身は個々人の創造に因る。すべての人間の認識が統合されたらあるかもしれないし、ないかもしれない。認識の統合さえできていないので(この過程には「権威」が発生する。ただの「権威」ではなく、「自由」だと思わせる「権威」が必要かもしれない。)、この問いは現段階では社会的には無意味である。個々人で勝手に創造してください。そしてそれは他人に共有されない。

 

「実数の濃度は幾らか」という問いは選択公理を含む公理的集合論を使ってさえ、独立であるのは驚きである。

この辺まで分かったら測度論なんて楽勝さ★(ガクブル……)

 

まず命題論理で対象を捕捉する。

述語論理を使って対象を空の状態にして自分で中身を作る以上。

 

「民主主義」と「自由」を守るも順序が逆である。本来「民主主義」も「自由」も勝ち取ったものである。守るということは勝ち取ったことのある人間の発言であり、そうでない人は言えないはずである。体験者には綺麗事に聞こえるのである。彼らは自覚のない悪や偽善に陥りやすい。「民主主義」も「自由」も空である。それらの概念を創造しなければならない。「独裁」も本来は空である。創造され続けるからこそある。蓋を開けてみたら中身は「民主的」である可能性(一般的には一部分であるが)だってある。また「民主主義」も「自由」も「独裁」もすべて中身を書き換えることができる。中身が知らないうちに入れ替わってないか注視する必要がある。

 

選択は創造と破壊である。