近代と現代における学問の変化

※以下の文章は厳密ではないが、肝心な点は外してないと思う。以下の文章はただ私の頭の中を整理しているだけである。憤りを感じる部分も絶対あるだろうが、目を瞑ってほしい。それぞれの学問に対する私の認識が大いに間違っている可能性がある(絶対ある)。話の風呂敷を広げ過ぎているが、大事なのは一つだけである。それが語りたいことである。それでも平気だという方はご覧ください。あまり真に受けないでください。また心理的に傷ついても責任は負いかねます。

 

 

 

結論から述べると、近代と現代は前提とする世界観が異なる。(気持ちの違い)

近代は仮に現実世界があるとして学問でその世界を写実に描画してきた。(写実的な構造)

一方、現代はどのような世界を仮定しても特定の世界でしっかりとした構造を作っている。

明確に変化が始まったのは19世紀後半から20世紀前半である。

ただし、いつの時代も「普遍性」を追及している。(ここが一番重要)

なぜそう言えるのか現実に起きている現象を元に論証に入る。

まずは芸術から述べる。

近代までの芸術は写実主義であった。

絶対的な現実世界が存在しており、それを緻密に寸分狂いなく描いた。

しかし、技術の発展により写真が登場した。

写実的な絵を描くには大変労力を必要としてきたのにもかかわらず、人工的作ることができるようになったのである。

そして失業した芸術家は次に抽象絵画ピカソなどのシュルレアリスムといった写実的ではない観念的な絵画を描き始めた。(間に印象派があるのは置いといて)

発展する技術に対抗したのである。

観念的な絵画には大きな問題がある。それは万人受けしないということである。もっと言えば見る人に委ねられている。

次に数学を見ていく。(ここの記述は暴論である。鵜呑みにしてはいけない。自分で書いるうちに間違っている気になってくる。(間違いなく間違っている)自分で記述したのに何言ってんだ!責任取れ!ごもっともである。少なくともゲーデル不完全性定理は他の学問とは独立である。ここの記述に不安、不満、懐疑を感じるならば、ブラウザバックしてご自身で検証してください。ただし「普遍性」の感覚は数学においてもあることだけは確かである。それだけは主張したい。数学に強い方怒らないでぇ……。なら誤解を招くようなもん書くんじゃねぇ!)

時代ごとに説明する。

まず古典数学と近代数学においては「普遍的」な現実世界を写実的に記述しようとした。

しかし、論理性(アリストテレスの論理学)を維持するために0や無限を深く追求しなかった。(ここで仏教の哲学と他の宗教の哲学の大きな違いになることは次に述べる)

これではまずいと思った数学者が近代までの数学を厳密に見直そうとした取り組みがヒルベルト・プログラムである。

 

無限を公理に含む有限個の公理で理論体系を作り、「数学の意味において」(ここ重要。動機はあくまで数学上の問題すべてを解決したかった)数学の完全性と無矛盾性を証明しようとしたのである。

しかしゲーデル不完全性定理により、有限個の公理を使って「形式的な方法」で無矛盾に作られた体系では「数学の意味において」数学の完全性も無矛盾性も証明できないことが分かった。(ここで注意したいのは数学の公理から演繹され、十分に証明された命題は無矛盾である。しかし数学には自然数のような可算無限濃度より大きい濃度があり、自然数の世界観では有限個の公理で可算無限濃度の命題よりさらに多くの命題を網羅できない(連続体仮説)ので、数学の世界において自然数論だけでは不完全になってしまう。(自然数論では数学の世界のすべての命題を網羅できない。)さらに形式的な理論体系で組み立てた数学に自分自身を証明しようとすると矛盾していないことを証明することができない。数学を対象とする客観な論理で判断しないといけない。とても暴力的に直観で述べるなら対象としての形式的な数学を客観的な視点で完全に判断できないし、形式的な数学が自分自身でさえ判断できない。まるで面接官が対象である就活生を言葉で完全に判断できないように、就活生も自分自身を言葉で無矛盾に述べることができないような感じでしょうか……。ちょっと説明が危ういので証明を確認します……。読者も証明をちゃんと確認してください……。)

 

(注!ZFCの公理の数は無限個!分出公理と置換公理から導ける!ZF,Z-,ZFC-,ZF-,ZC-,Z-があるのはどちらかあるいは両方除いたからである。公理と公理型の区別はいる。しかし公理型はメタすぎませんかぁ?メタ発言は嫌われるでぇ~?あくまで動機は有限個の公理。自然数帰納型もそうである。別記事にて)

 

このような結果になってしまったのは「有限の立場」で「普遍性」を追求したからである。(「有限の立場」を拡張した場合ゲーデル不完全性定理は成立しない。私は詳しくないので言及できない。どうやら無矛盾性を証明できるらしい。気になる方は「ゲンツェンの無矛盾性証明」を調べてください。)

はい。

これを見て頂くとまるで神学や哲学のようである。否、神学も学問も無限を考えるということは「普遍性」という概念が重要である。「普遍性」というのはすべてに通ずるすべての個々人に通ずる概念である。その気持ちは最後に書くのでいったん脇に置く。

これらを専門に研究する数学の一分野を数学基礎論圏論など)という。しかし、残念ながら70年代以降多くの研究者が去ってしまった。数理論理学としてコンピュータと紐づけて、なんとか社会において存在意義を維持している。(大変失礼である。だが、現実でもある。これは私の心意ではない。心の底からこの分野は発展してほしい。これは感情である。じゃあお前やれよって話であるが、私は有限である。循環)

では多くの数学者はどこに行ったのか?

それが次に話す現代数学である。

「普遍性」が出発点なのである。今までの現実を写実的に描画する世界ではなく、あらゆる世界(数学の世界、写実的な現実世界、空想の世界や仮想の世界でもなんでもいい)においてその世界における明確な構造を作るのである。現実世界が一体どうなっているのかわからないのである。わからないのなら自分で公理を作って自分だけの世界を作るのである。(自己満の世界でもいいが、可能な限り万人が共感できる世界を作る)ある意味諦めに捉えられるかもしれないが、同時に自由になったのである。(小さいところでは個人、大きく言えば人類全体)もちろん誰にでも説明できる責任が生まれる。それには論理が必要なのである。(論理学についても言及する)

これは先に述べた芸術の世界に起きた変化と似ている。

代数学が難解になってしまった要因である。

世界がどうなっているかわからない。しかし確かに私は実在する。本質はどうなっているかわからないが。ならば世界の構造を作ればいいのだ。それは自由ではあるが、道義的な責任を背負う。

数学は現実世界(これも普遍的)の構造を描くだけでなく、さまざまな世界の構造を作る「構造の科学」になったのである。(ただし絵画の構造とか、社会構造とか世界は構造に溢れていて全部はできないので、構造の中でも位相的構造、代数的構造、順序構造に焦点を当てている。)

ここまでの数学の流れは人間である数学者に起こったことである。正直要素が多すぎて疲れるのである。どうにか自動化できないか。数学者の中から計算機を考える人が現れるのもこの流れを見たら当然である。

次は論理学について述べる。

論理というのは学問の道具である。(論理学の哲学は別)

あらゆる学問は目的がある。手段として論理がある。

しかし、この論理が現代になるまでかなりいい加減であった。

古代や中世あるいは近代においてもアリストテレスの論理学(古典論理)が基本であった。

この論理の問題は有限の範囲では有効であるが、要素が無限個の場合を考慮に入れていない。いわゆる数学上のパラドックスの発生原因である。

近年のロジカルシンキングは恐らくアリストテレスの論理学までであり、学問をやっている身にとっては子供の遊びに感じる方は多いであろう。(憶測である。逆に言えばビジネスの世界はそれすら十分に整備されていなかったのだろうか。)

現代では様々な論理がある。始まりは記号論理である。ライプニッツが考えた(と言われる)論理である。彼は「普遍性」に気づいていたのである。彼は生前に「なぜ何もないのではなく、あるのか?」と説いた点からも伺える。そしてそれを記号という人間が表現できる最も普遍的な方法で記述しようとしたのである。

ほかには直観主義論理(本来は無限を考察した先に数学から生まれたが、今では情報科学の世界で有限集合においても考えられる。なぜならコンピュータの世界は仮想世界なので、個物が在ったり無かったりすることができるからである。)やさらには様相論理などと言った形式的でない意味論の世界が展開されている。(可能世界と言われるのも納得できるであろう。)

次に哲学について述べる。

まず前提として哲学は人の数だけある。なぜなら哲学というのは個々人に宿るものだからだ。

古代や中世は上のアリストテレスの論理学と被るところが多いので端折る。(詳しい方が見たら絶対怒る。しかしここまで記述するだけでも疲れた。各自で補完してください。スコラ哲学etc)

近代西洋哲学にはデカルトやらカントやら大事な過程があるが、話は有名すぎるし、恐らく皆さん詳しいことでしょう。

次に行く。

現代哲学の発展は現代数学の発展なしには語れないでしょう。(ラッセルとか歴史的な流れを鑑みて)

無限を考えていく過程で実存主義構造主義ポスト構造主義の順に変化したように数学の学問においても似た現象が起きている。哲学においても「普遍性」前提に考えているのである。サルトルの言った「実存は本質に先立つ」というのも「普遍性」があって言えるのである。「本質」と「意味」が同じならば、「普遍性」には「意味」はない。「普遍性」から「存在」を生み出して構造を作って「存在」同士の比較をして初めて「意味」が生まれるのである。自分だけの宇宙を創るのである。もちろん構造そのものもいくらでも作ることができるので、その都度宇宙を作り変えて良い。「意味」も一定である必要がない。(さすがに「意味」まで一定でなくなると「普遍性」に戻ってしまう気がする……。「意味」の「意味」に「意味」がない……。自己言及である……。どうやら人間は階層においても有限、それも3つ前後くらいしか考えられないようである。上の宇宙はどうやら理性と感情の止揚(文字通り)のようである。あれ?なんで「存在」だけ恣意的なんだ?社会を構築するために必要なのか?自分以外の人間が「存在」して「社会」という概念を作って「存在」を作る?また戻った。「存在」は位相構造であるもあれ~?あ~わかった。いろんな世界を作ることが現代の流行りなんだなぁ……。(情報社会)人間が活動するという現象が「差異」(これも概念やなぁ……。現実と関係ない……。人為的……。)を生み出して「価値」も生まれる。写実的な世界よりも様々な世界を作ることに価値が生まれる。全人類が自分の宇宙を創れるようになったら「価値」は消える。「差異」も消える。存在も自分自身も。「普遍性」に戻る。いや待てそれも土台が在ってだ。土台とは写実的な一般的な「現実世界」である。そこから無限のエネルギーを得なければ成立しない。よって古典的な世界の探求はまだ終わらない。現実と理想のバランスが必要である。(現実は常に有界、理想は非有界であってほしい)そのバランスはちゃんと成立しているのか?不安定なのでは?またメタ視点である。様々な世界に横断的な数学はその時も役に立ちそうだ。現代は個々人が使える情報が増えただけである。情報科学も他の学問の発展があってこそ成り立つのである。他の学問の発展(情報科学を使った場合でも)が芳しくないと情報科学の発展も頭打ちである。「価値」が在るうちは理想世界を開拓し終えていない(つまり現実と理想が一致していない状態)と言えるだろう。)

物理学を述べる。

まず古典的な写実的な現実を今でも十分に追及しているのは先の数学基礎論理論物理学くらいである。(ほかにもあるかも)

古典的な意味での「真理の探求」は恐らくこの領域にしか残ってないであろう。ある意味生きた化石である。(暴論である。)

物理学は微視的な世界で観測できる素粒子帰納的に理論を作っているのである。統計的で結論は飛躍ではあるが、それが物理学の醍醐味である。大変創造性が高い。しかし、どこまで作れるか問題である。観測には限界があるかどうかもわからない。(量子の実験が大変精密で十分な試行をしているを承知の上で述べている。)なぜなら「有限の立場」ではその判断をすることもできないからだ。

現代の量子力学では素粒子の振る舞いが「粒子性」と「波動性」の二重性を持っている。これがある特定の座標に現れたり、消えたり、はたまた全く予想もつかない挙動をする。しかしこのような現象も「普遍性」を担保した数学では記述することができる。あくまでこれは挙動であって、それ自体なんであるから述べていない。ここが、人類が現在認識できる写実的な現実世界の下限である。(さらに下界があるかもしれない)

この二重性を二面性と捉えて、占い師の言葉のようなスピリチュアルな世界が世の中に蔓延ってしまった。確かにこの現象で好きなように物語を描くのは自由だが、この世の真理のように語るのは間違いである。(占い師の言葉が既に巨視的である。)(しかし情報科学の世界では巨視的でも表現できちゃうんですねぇ!(直観主義論理とか)正直誤解を与える元になってしまう気がするが……)

この世界を他の世界と紐づけることはできません。仏教でさえも。逆に紐づけた人は悟りの境地に到達してません。(悟りとはなにかも後で述べる。)

さらに宇宙は有限なのか無限なのかもわかりません。(数学では空集合と全体集合は開かつ閉集合である。)現代の観測可能な宇宙が現代の宇宙の上限である。(下限は素粒子ともいえる。上と下は入れ替えてもいいはず?)(形而上学という名前が良くない気がしてきた。非有界学と名付けたほうが人間と宇宙は対等な関係にあると感じる。)(知識も推論する力もないと素朴実在論に陥る)

(蛇足:ビッグバンと宇宙の始まりは異なる。ビッグバン理論は無から有であるとは主張していない。あくまで「今観測されている宇宙」がとても小さい領域(それも無限な)から膨張(爆発でさえない)したという主張である。物理らしい答えである。小さい違いに思うかもしれないが、世界観は180度異なる。無と無限はまだ概念でしかない。)

次は宗教の哲学的側面について述べる。(宗教そのもの意味ではない論理の部分。)

基本的に昔からある宗教は論理がしっかりしている。数学のように公理を設け無矛盾な論理体系を築いている。そして超越という無限を考えている。ただし、人々を従える権威になってしまった点が数学と大いに異なる。宗教における一番大事な点は教えを守ることである。これに創造性はない。時に異端者が出るのは教えを破ったからである。しかしこれは本来人間ならば当然発生する現象である。(新興宗教の最大の問題は論理がいい加減である点である。それを信仰するくらいなら過去の人類の長く積み上げてきたものを信仰したほうがマシではあるが、それは個人の自由でもある。)

そんな中、原始仏教は宗教というよりも実践哲学である。教えを守る以上にそれを破ることを目標にしている。ちょっと詭弁だが、なぜスティージョブズが座禅嵌まったり、アメリカでメンタルヘルスが流行るのか、破ることに価値を見出したのである。仏教は二面性を感じる始めるところが出発点である。結論ではない。「普遍性」を感じて、実在という概念を作るのである。(空が在るとはどういうことか説明する。水の入ったコップを用意する。そして水を捨てる。コップは空になった。では水の変わりに何が入ったか。空が入った。こうして空の概念ができる。(もちろん現代では知識として空気中の分子が入るが、当時の人はそんなことは知らない。)これは真空ではない。空がある状態と真空の違いを論理的な説明で知りたい方は開集合の境界の問題を学んでください。恐らく納得できる。)

そして枝葉のごとく構造を作っていくという意志が出来てようやく「悟りの境地」に到達するのである。他の言葉で言い換えるなら、守破離という概念がある。宗教は守までしかやらせない。原始仏教は破まで連れて行ってくれる。原始仏教は一人前とはどういう状態か述べている。あらゆる物事を習得する過程は守破離の概念に対応する。守の最終段階は「普遍性」に気づくことである。

結論を述べる。

守:日常生活の具体的なことから「普遍性」をまず獲得すること。

破:「普遍性」を前提に既に世にある公理を採用して構造を再構築したり、自分で公理を作って構造を作る準備をする。

離:オリジナルの構造を作り、できれば他人に伝えられる形に仕上げていく。(文芸的プログラミングがなぜ重要か。人に伝わる形にすることが大事だから。構造は美しく仕上げる。)

意思の段階にあった構造を他人にも理解できる意志として構造を作る。

それが創造であり、現代である。

 

 

追記:良くも悪くもこの地球は有限だったのだ。(もちろん密度はあげられるが、限界はある。)生物は拡張が大好きなので、外の世界へはいずれ出なければならない。

さらに追記:我々は何も知らなかったという状態を忘れた。そして生きている間は思い出すことはできない。ただ感じ取るだけである。

さらにさらに追記:科学は人間の五感による認識に頼ってきた。認識は能動的である。例えば物体がなぜ認識できるのかというと物体に当たった可視光線が反射して人間の網膜に到達し、それを人間の脳内で処理しているのである。対象を見るということは対象に触れているのである。巨視的な世界ではそれでよいが、微視的な世界では問題が発生する。素粒子(「粒」なのか「波」かは置いておいて対象とする)そのものに可視光線を当てるのは至難の業である。当てやすくするために可視光線の波長を短くしてしまえば、対象を変化させてしまう。素粒子を正確に測定することはまだできない。(ハイゼンベルグ不確定性原理)数学が認識を超越したところを見ているとも言えるが、それも観測という上限(観測可能な宇宙)、下限(量子)(数学的には有界であると思いたい)があるからできるのである。更なる観測技術の発展を切に願う。

さらにさらにさらに追記:「普遍性」を感じるとリーマンゼータ関数の解析接続も難しくないと感じるようになる。なぜなら数学の世界に条件を加えれば、場合によっては有限な値に収束させることも可能だからである。たとえそれが間違った結論でも……。

さらにさらにさらにさらに追記:近代までは多くの人が絶対的な公理があると思っていたが、現代は強く言えなくなってしまった。100年前くらいから学問の発展が足踏みし始めたように感じる。(絶対ではない。)自分で公理を創るのは本来許されないのであるが、現代は仕方なく許容するしかなくなってしまったのであろうか。

さらにさらにさらにさらにさらに追記:「普遍性」には「無限」と「矛盾」がセットで付いている。どちらも人間の心の産物である。自分の「存在」はいつの間にか自分で作った概念であるが、それは矛盾している。そしてその集合体である社会も矛盾している。「生きる」ことに意味はない。しかし「構造」を完全に壊してしまうと「生きる」こともできない。ちょっと創る。それが有限な人間が意味を観だせる「生き方」である。というのを過去の人も今を生きる人も未来の人も「行う」(それぞれの現在においての行う)のである。早く無限な人間になんねぇかなぁ……。アホ言ってないでやるかぁ~。

さらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:仏教は正しい。ただし仏教の世界においてである。写実的な現実世界とは差異が大きすぎる。仏教もまた完成していない。常に異端であれ。

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:「普遍性」には「差異」がない。では「差異」はどこから生まれたのか。謎である。前提は分からないが、結論は宇宙の始まりである。数学の「本質」(いや、数学に限らず)は教えることができない。自分で獲得して感じてもらうしかない。現実世界は存在する。(例えば土に埋まった恐竜の骨とか人間の意思、意志関係なくそこにあったのである。)ただし人間には正しく認識できない。現実世界に似た写実的な世界を無意識に脳内に作っている。(水槽の脳とか捨象したら当たり前。)

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:いろいろ書いたがこれは現象学に繋がるのでは?

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:「普遍性」を感じて初めて人間になる。教育は「形式」しか教えられない。「前提」は自明に扱われるのである。「前提」とは「人間として当たり前」な事柄である。「普遍性」は「人間として当たり前」のことである。「普遍性」を感じて初めて人間になる。おまけで自由と責任が付いてくる。人間として扱っていないのに「自己責任」とはあまりに酷ではないか?恐らく相手も人間とはどういう状態かわかっていない。(ここで言う人間は「人格者」である。)

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:「普遍性」は最後の「守」、最初の「離」かもしれない。「破」は「差異」かもしれない。情緒なくして理性はないが、理性無くして情緒は実現しない。

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:現代のグローバリゼーション(情緒)は計算機(理性)なしでは、成し得なかったであろう。なぜ計算機(情緒)にそれだけの力が在るのか。それはアプリオリな総合判断である数学(理性)に基づいて構築しているからである。(数学も情緒である)多くの人が妄想(情緒)に浸れるには学問(理性)の情けが必要である。「情けは人のためならず(自分のためである)」。人に情けを掛けられる人を求む。(学問は妄想だと言われたらここの文から中身が消える!完全に真にならねぇ!)しかし、理性的なグローバリゼーションに嫌悪感を生じるかもしれない。そうなったらもう壊すか地球から出るしかねぇ。(学問は本来情緒なんだよなぁ。経済の道具じゃないんだよなぁ。経済も情緒なんだよなぁ。学問も研究資金という道具を経済から得てるんだよなぁ。うげぇ……。結局バランス……。恐らく学問の出現は権威に寄るところがあるかもしれない。)

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」の~しなければならないの部分が「解った」(”解”を使ったのはこれは理論だからだ)。これは他人の痛みである。仏語でいえば「自分が分からない人は他人を責める。自分が分かる人は他人を痛む。」である。情緒の世界の範囲までならば真であるが「普遍性」では常に真ではない。この二つのそれぞれには「差異」がある。よって「普遍性」ではない。「普遍性」に好みな「差異」(認識できないものも含まれる)を作るか、「普遍性」にいくつかの物理法則が適応された現実世界で「差異」を作るか。しかし本当の意味で「普遍性」に近いのは現実世界である。なぜなら観念の世界は現実なくして成立しないからである。脳内の「普遍性」は飛躍である。もし仮にメタ的な視点が在れば、人間の世は茶番に感じるであろう。(あればの話。いや「差異」があるので、メタ的な視点はない。)(ここでは彼らの理論を批判しているだけである。彼らの心を無矛盾に知ることはできない。ただ彼らも心の「普遍性」に気づいているならば、自分の理論が無矛盾でないことを感じているはずである。それはつまり私の言説も批判されてしまう訳だが……。ヴィトゲンシュタインに戻ったぁ~)

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:オカルトみたいになってきたが、明確の差は権威があるかないか。「使命」なんてものも権威あるものが在ってである。数学はすべての人が持っているものである。限りなく文明に近づく活動である。数学のアイデアは飛躍である。その段階ではオカルトである。しかしその後しっかり証明する。数学を権威の道具にしてはいけない。

さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにさらに追記:「普遍性」を説明するためにいろいろ書いたが、完全に検証できないので間違いである。(言語を使っている時点でアウト)「普遍性」の漸近的な記述を得るには記述し続けるか、或いは沈黙しなければならない。(第三の方法を飛躍で作れるだろうが、検証できるだろうか……。)ここで言う「普遍性」を感じれるようになるということはすべての洗脳が解けたことかもしれない。(曖昧さ回避したいが難しい。言わないほうが良いか……。私が言った「普遍性」とは何か個々人が考えて頂き、尚且つ優劣を付けないことが正しいかもしれない。考え続けるんやで!民主主義もそれあってやで!辞めたら本当に標榜しているだけになるで!私も有限の立場なので正しくない。私と対象物だけでなく、第三者の視点が必要である。おお!神の概念は仲介役になるねぇ!超越的な「存在」では元に戻るので、「存在」でさえないものを仲介役にできないだろうか。それは権威だろうか。いや誰もが持つものである。)

 

(敢えて日常的な言葉で表現するならば)

創造とは論理と情緒の止揚である。

(しかし論理も情緒もしっかりと対象として捉えることができない。うげぇ……。論理が情緒を整備しているようにも見えるし……。)

 

あ、夢と仮想現実は前提が異なることに気づいた。夢は各個人の情緒が創った(想像or空想)のに対し、仮想現実は作者の段階では創造ではあるが、遊んでいる人(観客)が見ているのは現象である。(もちろんそこからさらに観客が想像or空想を広げることは可能。)観客には仮想現実が夢に感じるのである。仮想現実を支えているのは創造である。想像と創造の違いを具体的な現象で体感できた。

もう一歩踏み込む。仮想現実と真の現実の違い。それは作者がいるか。前者はいる。後者は分からない。夢には自分(普遍性から感じる実在感)という作者がいる。認識が作り出す写実的な現実(現象)には自分という作者がいる。調べたら夢と現象の違いはあまり考えられてないような気がする。まぁ直感的に想像の度合いの差だろう。現象も想像の一部ではあるだろう。恐らく現象学に行きつく。

仮想現実とメタバースの違い。どちらにも作者がいるが、前者は創造された上での現象、後者が想像である。作り手ではない人には基本的に成果物しか見えないから混乱する。(プレイヤーとクリエイターではメタバースの捉え方が異なる。)作者は現象を現象を含まない想像の領域に広げる活動をする。それが創造である。

では論理と情緒はどこにあるか。現象ではなさそうである。現象を含まない想像の領域にある気がする。論理と情緒は表裏一体である。論理は現象を現象を含まない想像の領域に引き上げる。情緒は今いる想像の位置からさらに上に引き上げる。現象の拡張が創造である。例えよう。論理は地面に置かれた鞄を引っ張り上げる腕、情緒は懸垂を掴むもう一本の腕。これが創造のイメージであろう。論理は過去の膨大な積み重ねを含む場合がある(ほとんどの場合)ので、とても重い。まさしくピラミッドの建設である。上に行くほど難易度が上がる。また思ったが、上の石を下から持ち上げるのではなく、空中から降ろすことは可能だろうか。(ヘリでぶら下げて)つまり創造のチート技である。過去の具体的な人物で言うとラマヌジャンが該当するだろうか?「神」の概念だろうか?「神」の論理と情緒が役に立ったのだろうか……。

//偽文

前者は創造、後者は想像である。(言葉を創造に含めたらメタバースも想像になるが、グラフィカルな事象にはならない。各個人がどれだけ言葉を創造できるかには違いがある。これも訓練である。)

 

ユングの「集合的無意識」に似てきているが、その概念には構造がある。個人の夢や空想も真の現実を認識した人間が作り出した「現象」を元にした想像物である。個々人が懐く夢や空想も構造なのだ。私の言う「普遍性」には構造さえない。(ユングは理論よりも「経験的事実」らしいので、曖昧さを良しとする立場かもしれない。)

人間は矛盾を抱えている。否。真偽がはっきりする普遍的な構造を「有限の立場」である人間には作れない。しかし普遍的な構造に”近い”構造を創ることは「有限の立場」でもできる。

創造とは論理と情緒の止揚である。

 

論理と情緒は既存の理である。創造は新しい理である。

「物自体」や「事」は現象、観念実在や観念の理の向こうである。それを感じ取った上で理の世界に戻るのである。

素朴実在論から観念論を通って唯物論に至るのは、土台が同じだからであろう。しかし、世界の見え方は確実に変化する。

シミュレーション仮説も面白そうだけれども、反証も検証もできないので、科学ではない。非科学の領域で遊べる。(非科学の領域はかなり広い)

 

いくつかの公理を受け入れるとカントの言うようなアプリオリな総合判断でその公理上で展開される世界において普遍的、必然的な真理(例:数学の世界)を得られる。(この認識で正しいだろうか?)アプリオリな総合判断は数学の世界の範囲までであるか。(どうやら総合判断ではないらしい。反例あり。)「普遍性」の世界では数学はアポステリオリになるのだろうか。総合判断というのも真の現実までは言えないような気もする。総合判断も観念(現象を含む)の世界までだろうか。

そのような場合においても創造とは論理(判断)と情緒(公理の設定)の止揚(真理)である。

「普遍性」は真の現実まで囲えていない。観念の領域までである。

数学は数学の領域では発見だが、観念の領域以上まで広げると発明になるだろうか。

あーもうわかんねぇ。全部嘘だと思ってええで。頭いい人考えてぇ~。

ただ数学の世界を開拓するにはほとんどの場合、数学の公理に従わなければならない。

数学の事実は「発見」だが、数学の証明で使われる論理は「発明」である。

数学の事実の「発見」は人間の観念における「発明」である。
遊んでいるゲームのレイヤーの違いかもしれない。

人工物に囲まれた「発明」空間では「発見」を感じにくいのかもしれない。日々の生活の中で「発見」をいかに感じられるか。それには必要条件として権威を排除しなければならないだろうか。(しなければっていうのがなぁ……)